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デイ・ドリーム・ビリーバー

『雨上がりの夜空に』『スローバラード』と聞けば、一定の世代には自動的にきゅんきゅんスイッチが入るかもしれない。

後にザ・キング・オブ・ロックと呼ばれることになる忌野清志郎の〝不器用〟と〝懸命〟がせめぎ合うような歌声は、1980年代、日本中の十代の心をかき乱したものだ。

彼自身が、まだ何者でもなかった十代の頃の話。内向的で絵を描くのが好きな少年は、同時に音楽にも夢中になった。
ギターを手に入れ、バンドとやらを始め、勉強そっちのけの息子にお母さんの心配は募る。

そして母は、新聞のお悩み相談コーナーに投書したのである。

〈十八になる私の子供は、高校を卒業したら美術大学へはいる予定でしたが、最近では進学したくないと申します。(中略)ギターのプロになるのだと申します。プロには簡単になれるものでしょうか。学校へまじめに行かせるにはどうしたらよろしいでしょうか〉(『朝日新聞』1969年11月4日)

彼の未来を知る者としては微笑ましいエピソードだけれど、当時、音楽の世界など想像もできない母にとっては、どんなにか不安な状況だっただろう。それでも〈プロには簡単になれるものでしょうか〉と問う母は、息子の世界を理解したいと手を伸ばしているように思える。

誰に反対されても、成功してもしなくてもプロになるという彼を最終的に認めた決め手は、担任教師の助言だそうだ。

「大学に進学したと思って、4年間だけ好きにさせては?」

清志郎の母は、育ての母であった。生みの母は3歳の時に他界し、その姉夫婦が彼を引き取って育ててくれたのだ。

清志郎が、母(たち)のことを歌ったといわれる曲がある。
1989年に発表した『デイ・ドリーム・ビリーバー』。
アメリカのロックバンド、ザ・モンキーズの同名曲をカバーしたものだが、恋愛を歌った原曲に対し、清志郎(ZERRY名義)はオリジナルの歌詞をつけている。

どうしても人と違う方を向いてしまう夢想家の少年は、しかしいつだって、安心して夢を見ることができた。

〈ずっと夢見させてくれてありがとう/僕はデイ・ドリーム・ビリーバー/そんで彼女がクイーン〉

彼の夢見がちなところは、実の母譲りなのかもしれない。
そんな資質の出どころを承知しつつ、投書するほど心配した育ての母は、自分の信じる「まじめ」を引っ込めて見守ってくれた。

私事で恐縮ながら、母が3月に他界した。
私もまた、おそらくは母にとって理解に苦しむ娘だっただろうと思う。

親元を離れたいと言い出すことも、反対されるとお年玉で東京の大学を受験してしまうしぶとさも。
せっかく就職できた会社を、1年で辞めた時なんて事後報告だ。
一つの仕事を30年以上まじめに続けた母は、びっくりを通り越しておろおろしており、「私は今、親不孝をしているのだろうか?」 と、そこではじめて気がつく始末であった。

〈ずっと夢見させてくれてありがとう。〉

冷たくなった顔に触れたとき、清志郎の歌声が、不意に蘇った。

(「遠い風近い風」2024.4.27)





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