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記事一覧
麦酒屋るぷりん/銀座
2012.6.9 OPEN
「店を作ることで、どう世の中のためになるか。」
もしも心の検索ワードランキングがあるなら、昨年の断然一位はきっと
「自分に何ができるのか」
だろう。3・11以後、誰もが必死に探した言葉。まるで紀元前・後のように、日本には、その日を境に「変化」が突きつけられた。
西塚晃久さんの紀元前、それは彷徨いの時代だった。
料理人の父に反発し、やがて誇らしさを覚え、自身も
L'AS/CORK /南青山
2012年の開店当時、「L'AS(ラス)」は料理誌をはじめ、ありとあらゆる雑誌に掲載されたんじゃないかと思います。
なぜそんなに注目されたのかというと、大阪「ラ・ベカス」、東京「コート・ドール」、フランス修業を経て「カラペティバトゥバ!」を成功に導いた兼子大輔シェフへの期待感。
そして、彼の表現した「フランス料理店」が、日本では見たこともない世界だったからです。
厨房とフラットにつながる客席、引き
ペレグリーノ/恵比寿
自分は、何のためにこの仕事をしているのか。
コロナ禍では多くの人がこの言葉を口にしましたが、イタリア料理店「ペレグリーノ」の高橋隼人シェフから聞いたのは2015年。
2009年に開業した西麻布から恵比寿へ移転した、新米オーナーズストーリーの取材(料理通信2015年9月号)でのことでした。
「うまいものを作りたい」
答えは非常にシンプルなんですが、彼はそのために「土地を買って家と店舗を建てる」という
SUPPLY サプライ/幡ヶ谷
2019.1.23 OPEN
「隠れたくない!」
車がビュンビュン走る甲州街道に、冴え冴えと浮かぶ真っ白な暖簾。やや頼りなさげな、とぼけたような、浮遊感のある筆致でSUPPLYと書いてある。
横長の店の幅いっぱいに全面ガラスのサッシ。
カウンターにからりと並んだ背中。
ラーメン屋?
いや違う。お客はみんなナチュラルワインを呑み、イタリア料理をつまんでいるのだから。
「見え過ぎるくらい
COFFEEHOUSE NISHIYA/渋谷
2013.9.17 OPEN
「町のコンシェルジュになる。」 雨の日、カラフルな傘の群れが、大きな窓の外を流れていく。近所の女子高生たち。店の中から西谷恭兵さんが手を振ると、いくつかの傘が気づいて振り返し、後から後から “交信”が連鎖した。
「通学路なんですよ。彼女たちはお客さんじゃないけど、毎日こうしてる」
バールである。
でも「日本で、BARと書いてバールと読む人が何人いる?」とあえて「
デポーズィト バガーリ/三軒茶屋
飲食店を営む理由も、道のりも、店主の数だけあっていい。
連載「新米オーナーズストーリー」を始めてから12年後、『料理通信』2018年8月号のvol.130で、あらためてそのことを教えてくれたのが、イタリアワインバー「デポーズィト バガーリ」店主・佐久間努さんです。
飲食店は、訪れる人の存在を肯定してくれる場所。そんな店を作るための第一歩が、なぜか職業訓練校でした。大学を出て出版社に勤めていた28歳
梅香(メイシャン)/神楽坂
2008年12月、姉妹で営む可憐な名前の中国四川料理店「梅香」が誕生しました。
当時、女性料理人の独立は圧倒的に少なく、中国料理となればさらに希少。編集者と私はすぐ食べに行き、その場で取材をお願いして、翌年4月発売号の『料理通信』新米オーナーズストーリーに掲載させてもらいました。
今でもはっきりと憶えています。開店直後のまだ無名の店にもかかわらず満席、そこにいる全員がいい顔をしていたこと。
よい香
ロマンティコ/白金台
2006年7月号。『料理通信』創刊号であり、新米オーナーズストーリーvol.1は白金台のイタリア料理店「ロマンティコ」でした。
シェフの中山健太郎さんは、日本におけるイタリアンがまだ「東京の知る人ぞ知る新しい料理」だった1980年代から修業を始め、研修機関のICIF(イチフ)1期生として1992年に渡伊。シェフとして多くの料理人も育ててきました。
その中山さんが独立したのは2005年12月、38歳
SALUMERIA 69/成城学園前
今やさまざまなイベントで、DJがレコードを回すように生ハムを切っている新町賀信さん。そのフリーな生ハム職人の拠点は成城学園前にあります。選りすぐった生ハムやサラミを切り売りし、同じテーブルに載せる食材やワインも揃えた店「SALUMERIA 69(サルメリア ロッキュー)」。そもそもは練馬区で2005年に開店、2011年2月に成城学園前へ移転しました。
『料理通信』の連載「新米オーナーズストーリー」