麦酒屋るぷりん/銀座
2012.6.9 OPEN
「店を作ることで、どう世の中のためになるか。」
もしも心の検索ワードランキングがあるなら、昨年の断然一位はきっと
「自分に何ができるのか」
だろう。3・11以後、誰もが必死に探した言葉。まるで紀元前・後のように、日本には、その日を境に「変化」が突きつけられた。
西塚晃久さんの紀元前、それは彷徨いの時代だった。
料理人の父に反発し、やがて誇らしさを覚え、自身も飲食の世界を志す。
しかし高校を卒業してすぐイタリア料理店に入店するも1年続けられず、フリーターとなって飲食のアルバイトを転々。「将来は自分の店を」という意志も薄れていく中、たまたま手伝ったベルギービールバーで、“ビール”“カウンター”というアイテムに出合った。
「普段、初対面の人と話し込む場面なんてそうそうないけど、カウンターを挟めば堂々と話せる。これは特権だと」
大人にはこんな遊び場があるのか、と心打たれた二十歳に、「カウンターで、お酒で行く」という方向が見えてきた。
仕切り直しである。
酒の知識を広げるためバーに勤めながら、調理師学校の夜間部に入学。再びイタリア料理店に入店し、自信も資金も貯まってくると、「将来は自分の店を」から「こんな店を作りたい」と夢が現実味を帯びてくる。
そこに、釘が刺さった。
「当時、周りをあっと言わせるような店を、と考えていた僕に父が言ったんです。それでは人の気持ちを動かせない、と」
喧嘩の日々に、3・11がやって来た。
自分に何ができるのか。西塚さんもまた心の検索にかけたが、昼も夜く身ではボランティア活動もできない。悶々としている東京人に、意外にも、東北の親戚や知人はカラリと言った。
「ボランティアに行くだけが支援じゃない。自分が行けなくても、現地に行く人を元気づけられるのがあなたの仕事」
東京の、飲食業の、西塚さんだからできることがある。
あらためて見回した時、放射能問題で海外移住したり、国産食材を買い控える状況に危機感を感じた。日本人が、日本をあきらめかけている。
西塚さんの父は、日本料理「馳走啐啄」(2022年7月現在「日本料理 ときわ」)の西塚茂光さんである。
幼い頃から日本の料理や食材、器も身近にあった。お酒の仕事をしてからは日本のワインに衝撃を受けたし、国産ビールやウイスキーも面白い。
そんな風に、彼は日本育ちの良品を知っている。そこが伝われば、「日本人ってすごい」と顔を上げられる。
だったら伝えることが自分の役割だ。
「この時ようやく、父の言葉の真意がわかりました。人の心を動かす店。それは、僕が店を作ることでどう世の中のためになるのかを考えなさい、ということです」
西塚さんの紀元後が始まった。
「麦酒屋るぷりん」には、日本を応援するという芯がぴしっと一本通っている。通ってはいるが、決して押しつけがましくない。
いや、むしろ重すぎては伝わらない。
たとえば被災地の野菜を使いましょうではなく、視野はあくまでも丁寧に作られた日本の野菜。
この野菜を横軸に、日本のクラフトビールを縦軸に、「ビールって野菜で飲めるんだ」とわくわくさせることができたら任務完了だ。
料理を担当するのは、日本橋の洋食屋の家で育ち、北イタリアの料理で経験を積んだ西塚隼之介さん(たまたま同姓)。
フィッシュ・アンド・チップスでもフランクフルトソーセージでもなく、彼が作るのはアンチョビ代わりにへしこを使ったバーニャカウダや、ぬか床代わりに麦芽かすを使った発酵料理。
カウンターに立つ西塚さんは、まるでコーヒーを淹れるような静けさでビアサーバーを操り、「初対面の人」と穏やかな声で言葉を交わす。アゲアゲでなくスローダウン。
ここにビアバルの喧噪はなく、あるのは本を読みたくなるようなカフェの呼吸。銀座というより吉祥寺か下北沢か。
しかし思えば文明開化の時代から、銀座には常に新しい風が吹いていた。
この町のど真ん中に、また風が吹いた。薄はりグラスで職人のビールを味わえば、紀元後の日本に希望が湧いてくる。
●2022年6月9日に10周年を迎えた「麦酒屋るぷりん」の軌跡は、発売中のdancyu2022年8月号の連載「東京で十年。」でお読みいただけます。
麦酒屋るぷりん
東京都中央区銀座6-7-7 浦野ビル3階
tel 03-6228-5728
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