境界散文【引用】Gabor Mate, M.D.『身体がノーと言うとき』
うわ、と思う。
わたしは、人体と、中身が分離している感覚がある。これは今に始まったことではなく、ではいつからかと問われると、分からない。それこそ、拒食症になった頃からかもしれない。わたしは生きるのが下手なので、いつもヘトヘトに疲れている。生きていくことは苦しい。死ぬのも苦しい。何もしたくない。だけどもわたしは体力がある。人より長時間働いても売上は伸びるし、人体の回復は早い。
看護助手をしていたとき、いつも患者に憧れていた。ああ、人体が壊れれば休めるのに。だけど休んでも、逃げても、バックレても、「自分」は生きている限りどこまでもついて来る。その「自分」が疲れているのだから、人体をいくら休めても疲れは取れない。
人前で泣いたことなんてほとんど無い。怒ったことに関しては、一度たりとも無い。怒られることは、怖い。怒られたくない。だから人には優しくいたい。傷つけたくない。傷つくのは、痛い。傷つけるくらいなら、自分から去る。逃げる。
自分のことは話さない。人から見えるのはわたしの顔と体である。それは愛想が良く、ニコニコしている。声は通るし、誰にでも明るい。体重は管理され、痩せている。毎晩薬で眠り、疲れの回復は早く、健康そうに見える。
そうでなければ、見捨てられるという確信がわたしにはある。毎日眠るなんてできない。仕事なんてしたくない。男性に媚を売らずに働きたい。演技せずに生きてみたい。掃除なんてしたくない。食事を管理するのも疲れた。人の顔を伺いながら生きるなんてもう御免だ。親の存在なんて忘れたい。本当はなんにもしたくない。心から笑ったことなんてきっと一度もないけれど、わたしの顔はずっと笑っている。演技ができなくなったらーつまり、「見捨てられる」ことが見えたときは、自分から去る。そのほうが傷口は浅く済むし、怒りをぶつけられ、怯える夜だって過ごさなくていい。見捨てられることに耐えられる精神力は、わたしにはもう残っていない。
怒られたくないのに、怒れる人をいいなあと思う。こうして怒れたら鬱になんかならないだろうな、と。
泣ける人を、いいなあと思う。ああやって泣けたら、誰かが話を聞いてくれるんだろう。そうしたら診断書の内容は誰にでも信じてもらえるんだろうな、と。
確約された死を待つ人を、いいなあと思う。自分の手を汚さずに人体を手放せるんだと。なんと美しいことだろう。その過程をこの目で見たい。自分がこれまで達成できなかった、永遠の憧れ、「死」の道を。
それらに憧れる自分に、優しくできたら生きやすいんだと思う。わたしはちゃんと知っている。わたしの「幸せ」を、人は「不幸」と呼ぶことを。
抑圧された怒りは憎しみになって、もともとどんな形だったかも思い出せない。怒っていいなんて、教わらなかった。
慣れてしまった哀しみは、わたしに馴染む。泣きながら生まれたはずなのに、今のわたしは泣き方も知らない。
全ての問題は「自分」にある。外側の世界に答えなど無い。目に見える世界にもない。そもそも答えなど無い。わたしを傷つけた人でさえ解決策は持たない。問題はいつでも傷ついたわたし自身に属している。骨折したまま絆創膏を貼って生きている「わたし」が問題なのである。骨折しているのだから、骨を見なければならない。が、皮膚が邪魔をしてそれが見えない。わたしは忘れようと努力してきた。痛みを、変形を、そのままにして何度も人生をやり直した。絆創膏は減っていく。化粧して誤魔化すが、簡単に落ちてしまう。やるべきことは化粧ではなかったのである。
貴方はいったい誰なのか?
自分が誰かも分からないわたしに、そんなこと分かるはず、ないのである。
世界は曖昧なのである。
それを受け入れられないわたしは解決策が分からない。
ただひとつー「死」を除いて。
【余談】
引用した書籍『When the body says NO - 身体がノーと言うとき(伊藤はるみ訳)』は "良い人"ーつまり "Noと言えない性格" 、と医学的な疾患(特にがん、自己免疫疾患、ALS)との関係性を示唆したGabor Mate, M.D.氏による臨床論文集。ここ数ヶ月で個人的一番の良書(直感的に好き)であるとともに、大変気付きの多い一冊であった。被験者は、全部、自分だった。
最近は偶然とは思えない出来事がたくさん起こっていて頭が混乱しているが、そろそろ仕事はバックレそう、とだけ書いておく。明日も5時起きなので寝ます。
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