遺書散文 - 吉本隆明『遺書』
友人に勧められ、吉本隆明の著者を手に取った。『遺書』というタイトルである。選んだ理由は、価格と、タイトルになんとなく惹かれた、ただそれだけであった。
吉本隆明は詩人、親鸞の研究などで知られる評論家でもある。本書『遺書』は” 死" を「国家」「教育」「家族」「文学」など様々な視点から捉え、彼自身の死生観を俯瞰的に語った一冊である。大変興味深かったため、軽く紹介させてほしい。
そもそも「死」には様々な概念がある。
吉本隆明の言葉を借りれば、「肉体の死」、そして「観念の死」。例えば評論家で医者でもあるフーコーは、細胞はどこから死ぬのか、心臓が止まったらそれは死なのか、など「肉体の死」について徹底的に研究し定義を試みた。また、世の宗教は霊魂と肉体を分けて考える「観念の死」を創り上げることで国民を安心させ、文明を形成した、と言える。
吉本隆明は本書で、"「死」は多面的であり、社会や、自己価値感の形成にそれが必要である" ことを、著名な作家や哲学者、科学に宗教論を引用し、読者に分かりやすくその例を提示する。三島由紀夫、夏目漱石、サルトルやフーコー、法然、ヘーゲル、大江健三郎など読書好きなら思わず唸るような知識人の名前が並び、読んでいてこちらが浮き立ってくる。さらに戦中の死生観や、政治の死、社会の死など、日本をはじめ世界の歴史的な「死」の場面が語られる。
で?
本書が「死」の概念及び「死生観」についての解説書かと思ったら大間違いだ。
突然、こうある。
わたしは息を呑んだ。
突然、一人称が「僕」になる。自分の「好き」を読者に提示し、自信満々に
”自分は” そうと言い切る。正義や真偽など、もう関係ないのである。
わたしは感動してしまう。今までの文体、知的な解説や現代社会への批判は一体何処へ行ってしまったのだろう。思わずその文章を読み直してみる。やはりそこには、彼の意思だけが佇む。この作家が好きだなあと思う。なんて人間らしく、力強いのだろう。自分にはない、そのつよい力。これがこの人の、「遺書」なんだ!
結局「死」が何なのか、どこからが「死」なのかは、その人が「死」をどう定義するかに託されているのであって、死ねば終わり。それが自然の摂理。それで良いのだ、と彼は言う。
議論したい人はすれば良い。信仰があるのならそれでも良い。死に興味があっても、なくても、肉体の死が定義されても、されなくても、世界は何も変わらないのである。貴方は死ぬ。如何にも自然に。
そして本書の極めつけは、この言葉である。
そうしてわたしは彼の文章に惚れ惚れしてしまう。なんて、素直で人間らしいんだろう。こうして年を重ねる大人がいるのだ。
好きな人が、信頼する人が、そうと言ったから。それに、応えたかったから。それが全ての理由だとしても。それで、それだけでも、べつに、良いのである。曖昧なことは悪いと、一体誰が言ったのだろう。
こうして川辺で死を考えることに人生の喜びがある。
後ろで親子の声が聞こえる。臆病なわたしは、振り返ることができない。社会的な幸福に興味のないわたしは。
ふとその本の背表紙に目をやると、目の前にあるものとほとんど同じような、波が描かれている。今日が美しいかどうか、もうわたしには判断がつかない。
【余談】
「社会の死」は人間に生を与えるのでは、と思うことがある。
吉本隆明は敗戦で生きている意味を見失い、死んだ気がしたと本書で言及しているが、何人ものの文豪が似たようなことを書いている気がしてならない。彼や五木寛之は" 生き抜いて" 本を書き、三島由紀夫はかつて物凄い力で" 生きていた人" となり、太宰や芥川は" 死んだ" 。それだけの違いであり、終わりは同じ。
わたしは五木寛之の「戦時中は生きている実感があった」という話が好きだし、江戸雪の短歌も好きだ。
なんで好きなのか。なんか、好きなのである。はは。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?