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終わりの始まり

突然だが、わたしは『死』が始まった日を明確に記憶している。

わたしはいつも、死に憧れている。その幸福の瞬間を、美徳とし、大変美しく思っている。(この感覚はわたしにとっての通常運転である。)だけどもわたしは弱い。死ぬ強さなど到底持ち合わせていない。かといって凛と生きてゆく力もない。せいぜい気休めに、死んだ人が書いた文章を読む程度である。救いなど無いと知りながら、わたしは彼らに救いを求めている。死ぬことに思いを馳せ、憧れる。好きだなと思っては、その強さを羨む。

子どもの頃から、無意識に死に惹かれていた。遅ばせながら、その事実に気が付いたのは最近である。それが(つまり『死の魅力』が)明確な意識となったとき、わたしは小学校2年生であった。児童書や絵本を読む同級生を見下しながら、文庫の世界に足を踏み入れていた。自分は周りより頭が良いと思っていた馬鹿な子供であった。

それはさておき、文庫本というものを知ったその当時、初めて強烈な読書体験となったのが、森絵都の『カラフル』であった。読者の皆さまもご存知の通り、"初めて" というものは、形容し難い力を持つ。よくよく考えるとこの時期から既に、自分の「死」マニアフラグは立っていた。というのも『カラフル』は主人公がまず死に、「幸運にも」生き返るというあらすじなのである。ラストに近づくと、それが「不運」なことであるとわたしは気づいた。そして、こうあった。


僕は死んだ。

「カラフル」森絵都


それはページの一番左の行だった。つまりそのページはそこで終わっていた。わたしはランドセルを大きな机に置いて、その文章を読んでいる。今よりもずっとゆっくりしたペースで、文字を追っている。学童に行きたくなかった。放課後の図書室で独り。

ページをめくる。一番右。


はずだった。

「カラフル」森絵都


シンプルな文章であった。驚くほどに。

だが、その瞬間、今までただ人体のなかに入っていた "わたし" は突如目醒めた。スパーンと何かが頭に差し込み、突き抜けた。

なんて綺麗!とわたしは思った。

文章の美しさというものを、その日知った。掴みどころが無い、追っても追っても手に入らない何かを、わたしは読書に求めるようになった。読めば読むほど、虜になった。
この頃のわたしはまだ知らない。自分が追っているそれとは『死』であり、それに付随する美しさであり、それらは自分が生きている限り決して達成されないことを。そのあとずっと、今日に至るまで自分は『死』に魅了され続けることを。
自分が死に執着しているとはっきりと認識するのは、この日から6年も後の話である。

そのあと、小学校生活で読んだ本のなかで強烈に記憶に刻まれたのは、全て『死』についての文章だった。アレックス・シアラーの『青空のむこう』、乙一の『失はれる物語』、アリス・シーボルトの『ラブリーボーン』。どれも大好きになった。暇だったので、何度も読んだ。小学生にしてはだいぶ、「死」の素質が伺えるセレクトであろう。

終いにわたしは読書体験を拗らせ、中学生にもなるとキューブラー・ロスなんかを読み始めた。文字通り厨二病である。そしてある時気づく。自分がこの世で美しいと思っているものは、『死』という概念だけなのだと。それは、『生』ではないのだと。『カラフル』を読んでから6年の歳月が流れていた。どうやら、大多数の人はそれと違うらしいとわたしは認識した。つまりそれを口外してはならないらしい。そして、そのことに気付いた自分を偉いと思っていた。自分は他の人よりも頭が良いのだと、上から物を観察しているのだと、まだ本気で信じていた。皆が気付いていないことに、まるで一人だけ気付いてしまったように錯覚し、そんな自分に酔いしれた。

全く、嫌な子供である。今、目の前にこのような子供がいたら、大変、嫌いだ。

「理性の指図によってのみ生きる」人間は、何よりも死について考えることがない。そういう人間の知恵は「死についての省察ではなく、生きることについての省察」である。

スピノザ


とはいえ、あのスピノザがこう言うくらいなのだから、まあ良いのかもしれない。
自分が美しいと思う唯一の概念『死』が始まったその日を記憶したまま、わたしは死なずに歳を取る。明日もわたしは惰性で死なず、本を読む。死が向こうからやってくるその日まで、そうして過ごす絶望を知ったまま。

【余談】
散文っぷりがすごい。カレンダーが3連休のおかげでもう給料日が来る。ブックオフオンラインのカートを眺める休憩時間。


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