肉体の悪魔【ラディゲ 書評】


戦争の影がフランスを覆う

学校は休みになり

子供たちは気晴らしを探す



若い男性が戦地に赴きはじめる

人が突然死ぬのはよくあること




僕は戦争をこう言う

「長い長い夏休み」

銃弾に散る我が国の命は

どこか他人事なのだ




16歳。

僕は子供。

恋に落ちたのは

19歳の人妻

彼女は僕に言う。

「わたしはあまりに年を取りすぎている。」





夫が戦地で苦しむ時間を埋めるふたり




体の触れあいを愛のくれるお釣りくらいにしか思わない人もいるが、むしろそれは、情熱だけが使いこなせる愛のもっとも貴重な貨幣なのだ。



溺れ

支配される

それよくあるは恋で、狂気で、支配に余る愛情で

そのうちにアイデンティティを侵食し


僕は知る



女性に対するさまざまな権利をあたえてくれるのは愛だけだという事実に、心の底から絶望しはじめていた。



若いふたり


マルトは湿った窓ガラスに頭を押し付けていた。残酷な若者の気まぐれに耐えているのだ。


日に日に曖昧になる

僕と君の境界線


「ジャックと幸福になるより、あなたと不幸になるほうが良い。」






ああ、これはまた

なんて素晴らしいものを読んでしまったのだろう。






ラディゲ自身の経験を織り交ぜた文章。

これが完成したとき、

彼はわずか18歳。

こんなことがあるだろうか。



「哲学的饒舌」とでもいえるような表現。
慎重で繊細さが散りばめられる主人公の論理的思考回路


そんなことをするのは人間じゃない、と父は言った。


何をして生きたらこれが書けるのかとさえ思う
登場人物たちの会話


そうかもしれない。


それらの奥には常に素直な感情


だが、人間と人間じゃないものの境はいったいどこにある?





多くの恋愛小説というものは

大人の視点で書かれている。

大人の年齢でなくとも、自我はひとりでに自立している。




本作の僕は

自分をまだ「子供」だと思っているのだ。

こんな恋愛小説がほかにどれだけあるだろうか。



僕は両親の言動を慎重に観察し

ことあるごとに、自分が子供であることを恥じ

実際にそれらしい行動に出たりもする

自我が両親の支配下にあることを念頭に置いたまま、
物語は進んでいく。




自分は


「恋をしたひとりの男」

ではなく

「恋をしてしまった子供」


であると思いながら。







読んでいるわたしたちは

ラディゲの若き才能に感動しながらも

思い出す。




自分がまだ
父と母の子供であったときのことを。



大人とはどこか別世界の人種であり、
自分は到底そこには辿り着けないと、

勘違いしていたときのことを。



大人とは、

中身はいまのまま
経験と学習を重ね
責任を与えられた子供であるということを

知らなかった、ときのことを。








ラディゲは死んだ


わずか20歳で。





残された本は2冊。




こうしてたくさんの国で読まれて

わたしたちは思いを馳せる

彼の

感性に

才能に

死に際に。



一緒に生きることと一緒に死ぬことのあいだに、どんな違いがあるというのだろうか?



「肉体の悪魔」中条省平訳
光文社古典新訳文庫







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