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「表現すること」をウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』から考える。【PhilosophiArt】
こんにちは。成瀬 凌圓です。
今月は、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読みながら、哲学とアートのつながりを探しています(全8回)。
第3回は、『論考』の中で扱われている「命題」という言葉の意味と「ナンセンス」について考えていきます。
前回まで(第1回、第2回)の記事はこちらから読むことができます。
<第1回>
<第2回>
命題によって現実を見る
前回の記事(第2回)では、思考は命題によって知覚できるということがわかりました。そして、「世界」の対象に代わるものとして「名(な)」が命題に使われています。このことを前提に進めていきます。
今回は、さらに命題について説明されている箇所を読み進めていきます。
3.3 命題のみが意味内容をもつ。名は、ただ命題という脈略の中でのみ、指示対象をもつ。
この3.3節あたりから思考と言語の関係がより強くなっている印象です。
名は命題の中でしか対象を持たない、つまり「名だけでは何を意味しているのか分からないでしょ?」というのがウィトゲンシュタインの考えです。
例えば、大学の友人たちとパーティーをしたときにあった2つの場面を考えます。
1. 友人が用意したお菓子が4つしかなく、僕の分がなかったとき。
成瀬「あれ、僕のお菓子は?」
友人「甘いもの苦手って言ってたから、違うもの用意してるよ」
このときの“僕のお菓子”は、僕が受け取るお菓子を指しています。
2. 僕が用意したお菓子を配ろうとしたが、周囲にないと気づいたとき。
成瀬「僕のお菓子は?」
友人「玄関に袋置きっぱなしじゃない?」
成瀬「あぁ、とってくるから待ってて」
このときの“僕のお菓子”は、僕が友人に配るお菓子を指しています。
このように、同じ表現(僕のお菓子)を異なる像に写していることが日常であるかと思います。ウィトゲンシュタインはこの違いを「シンボル」と「記号」という2つの概念で表そうとしました。
3.31 命題の意味を特徴づける命題の各部分を、私は表現(シンボル)と呼ぶ。
(命題自身が一つの表現である。)
命題の意味にとって本質的で、諸命題が共通の部分としてもちうるもの、なんであれそうしたものが表現である。
表現は形式と内容を特徴づける。
3.32 記号はシンボルの知覚可能な側面である。
3.321 それゆえ二つの異なるシンボルが同じ記号(文字記号、音声記号、等々)を共有することがありうる。そのときそれらは同じ記号ではあるが、異なった仕方で表示することになる。
「シンボル」は、命題の中だけで意味を持ち、特徴づける部分を指します。
「記号」は、そのシンボルの知覚できる側面を指します。
私たちは、文字や音声などの記号を用いて、そこからシンボルを認識しようとしている、とウィトゲンシュタインは『論考』で述べています。
そのため、読み取った記号をシンボルと認識しないこともできます。
ウィトゲンシュタインはこのことを「ナンセンス」と言います。
この「ナンセンス」についても考えてみたいと思います。
哲学はナンセンスかもしれない
ナンセンスは、記号と対象の不一致によって起こります。
すでに有意味な命題に関連せず、新しい意味を持たせることもできない命題に対して、「ナンセンス」と呼ぶことをウィトゲンシュタインは『論考』で述べています。
このように言っていることに対して思ってしまうのは、
「『論考』がナンセンスなら、いったい何をしているのか?」という疑問です。少し先になりますが、ウィトゲンシュタインは『論考』で示したことについてこう述べています。
6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜けーその上に立ちーそれを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)
私の諸命題を葬りさること、そのとき世界を正しく見るだろう。
このように、『論考』はナンセンスである、と示した後、
「語りえぬものは、沈黙せねばならない」と有名な言葉で締めくくられます。
しかし、語りえないけれど、沈黙できない時が僕にはあるような気がしています。そのことについて、もう少し詳しく考えたいと思います。
アートはナンセンスなのか
何かアイデアが生まれるとき、創作意欲に掻き立てられるとき、それは自分の中で言葉にできないナニカを形にしようとしている瞬間だと思います。
ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』というタイトルで問いかける姿勢は、この作品を描くことで「語る」ことに挑戦しているように思います。
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何か創り出すことは、ナンセンスなのか。
だけど、思考と対象を新たに結びつけて新たな命題を(作品という形で)作ることができるということは、アートや創作はナンセンスではないと言えるかもしれません。
前回の記事も踏まえて考えてみます。
作品には、作品という像に対応した「世界」の中の「対象」が存在し、作者やその研究者、批評家などが、唯一の完全な分析を理解しているのではないかと考えれば、アートは命題の一つの形式であると考えることができると思いました。
創作する時というのは、自分がとらえた「世界」を、それぞれの方法で知覚できるようにしている。
ウィトゲンシュタインの考え方に照らし合わせれば、そのように言えるのではないでしょうか。
つまり、アートについては語ることができる、と。
次回(第4回)は、ウィトゲンシュタインが見ている「世界」を論理から明らかにしようと思います。その中で、さらにアートについてどのように語ることができるのか考えていきます。
第4回の記事はこちらから↓
参考文献
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」〔電子書籍版〕(野矢茂樹 訳、岩波文庫、2017年)
大谷弘 「入門講義 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』」(筑摩書房、2022年)
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