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「表現すること」をウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』から考える。【PhilosophiArt】

こんにちは。成瀬 凌圓です。
今月は、20世紀の哲学者ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』(以下、『論考』)を読みながら、哲学とアートのつながりを探しています(全8回)。
第3回は、『論考』の中で扱われている「命題」という言葉の意味と「ナンセンス」について考えていきます。
前回まで(第1回、第2回)の記事はこちらから読むことができます。

<第1回>

<第2回>


命題によって現実を見る

前回の記事(第2回)では、思考は命題によって知覚できるということがわかりました。そして、「世界」の対象に代わるものとして「名(な)」が命題に使われています。このことを前提に進めていきます。
今回は、さらに命題について説明されている箇所を読み進めていきます。

3.3 命題のみが意味内容をもつ。名は、ただ命題という脈略の中でのみ、指示対象をもつ。

ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」〔電子書籍版〕(野矢茂樹 訳、岩波文庫、2017年)より

この3.3節あたりから思考と言語の関係がより強くなっている印象です。
名は命題の中でしか対象を持たない、つまり「名だけでは何を意味しているのか分からないでしょ?」というのがウィトゲンシュタインの考えです。

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