サンフレッチェ広島のネーミングは、毛利元就の有名な遺訓「三本の矢」が由来!
昨日、配信を失念していたので、今日は2本配信いたします。
前回▼
前回は三ツ矢サイダーの名前の由来をご紹介いたしました。戦国武将・毛利元就の「三本の矢」の故事っぽいよねと思いがちですが、じつはもっと古い平安時代の伝承が由来でした。
毛利元就のプロフィール
この毛利元就と、三本の矢の故事について簡単にご紹介します。
毛利元就とは、安芸国(現在の広島県)の吉田郡山城主にして、中国地方の覇者となった戦国武将です。
75歳で病死するまで二百数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、一代で毛利家を西国随一の大名にして大国を築き上げた、まさに「戦国の雄」といえるでしょう。
宮島を奇襲し大内氏家臣の陶晴賢を下した厳島の戦い、尼子久幸率いる3万人の軍勢をわずか8000人という寡兵で破った郡山合戦、尼子軍や山中鹿之助率いる尼子再興軍を二度にわたる激戦ののちに退けた月山富田城の戦いなどが有名ですね。
三本の矢の故事
三本の矢の故事とは、その元就が晩年、長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景にあてた「三子教訓状」の中で述べた遺訓です。新興勢力だった毛利家は、有力な国衆であった吉川家と小早川家を味方につけるために、自身の子どもを養子に出して家同士を強固に結びつけた盤石な体制をつくりました。歴史家の間では「毛利両川体制」と呼ばれています。
この遺訓の内容はおおむね以下の通りです。
晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
つまり、3人が仲たがいせずに一致団結して毛利家を盛り上げるように、と伝えたかったのですね。
イタリア語で三本の矢
元就が治めていた安芸国、現在の広島県には「サンフレッチェ広島」というプロサッカーチームがあることは皆さんご存じだと思います。もともと東洋工業(現・マツダ)の蹴球部が発祥のチームで、エディオンスタジアムをホームグラウンドとする、J1の超強豪です。
一見するとこのチーム名はただの外国語のように思えますが、これが三本の矢の故事に由来しています。
サンフレッチェという単語を分解すると、「サン」は数字の3、「フレッチェ」はイタリア語で「矢」を意味しているのです。
そして三本の矢の結束にちなみ、広島の「市民、行政、財界」の三位一体、チームスポーツにおける「技術、戦術、体力」の三要素、さらには選手個人の「心、技、体」の三原則にもかけています。
この由来の証拠に、チームのエンブレムにも三本の矢があしらわれています。
サッカーチームの名前はカタカナ語ばかりですが、じつは地元に根差した名前をうまくつけているのですね。
参考資料:
『戦国武将ものしり事典』奈良本辰也監修(主婦と生活社)
サンフレッチェ広島HP
Ⓒオモシロなんでも雑学編集部
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