見出し画像

【聴く】ひとの話がきけるひと

こんにちは&はじめまして ななるです。

人の話をきくとはどういう意味なのか、ぼんやりとでもいい、輪郭をみようとしています。暮らしの中で、「当たり前にできていること」。「当たり前にできてきた行為」といえばそうなのでしょうが、私には「きく」が何を指しているのかが、わからなくなりました。定義はわかる。字面でもわかる。説明しろと云われたら、言語化して説明できます。なのに、体感できていない。腑に落ちません。小難しく考えすぎともいえるのに、どうも気持ちが納得せず、「きく」を学びはじめました。

聴くと聞く、は全く違う

きくにはそもそも、二つの漢字が当てられています。「聞く」と「聴く」です。学校の授業は、「聞く」だけれど「聴く」ではない。音楽は「聞く」でもあって、「聴く」でもある。Listen とHearの関係かとも考えたけれど、どうやらそうではない様子。「聴く」と「聞く」は、実際、心と行動の関係が決めるのかなと今は考えます。私にとって『聴く』は、心が伴う行為。聞くは、身体の「音を感知する」能力の発現です。子どもの頃、散々「ひとの話をききなさい。きくときには話すひとの方向に身体を向けて」と云われたのに、この「きく」がどちらだったのか、どちらだと教えてもらったのか、記憶には、破片すら残っていません。

ひとの話がきけるひとは、自分の話がきけるひと

きくを学び始めたピヨピヨは、一歩踏み出し気が付きました。「私、実は自分の声すらきいてなかったんじゃね?」これは笑うしかない。自分の内側の欲求や、要望や、意見を、すっ飛ばして、あるいは押し込めて生きていた様子。「私、自分のやりたいように、自由に、気ままに、やってきたわ!」と(言葉にはしないが)云ってきたにも関わらず、結局自分の声は、ことごとく耳を塞いでやり過ごしてきた模様です。数字を扱う、原稿を校正するなど、細かい気づきと注意が必要な仕事は、とことん苦手でやりません。結局これも、全部、聴くを練習するなかで、「細部が見えていない」=「細部には触れないようにしてきた」私の考え方や心の使い方の癖が、透けて見えます。

飛び込んだ先の日本傾聴能力開発協会は、「傾聴」を広める活動をしている団体です。「傾聴」は心理学にルーツを持つ技法。学問だから、基本があり、カタチ(公式)がある。「傾聴」という存在は認識していたし、聴く技術として認知していたものの、カール・ロジャーズどこ行った?って云いたくなるくらい日本解釈されていて、私には良いイメージがなかったです。

〇相手の話を批判せず、とにかく耳を傾ける
〇自分の考えを押し付けない
〇相手に配慮し共感し、援助する

まるで、我慢大会じゃん。きいてもらう側はすっきりするかもしれないけど、きく側はどうなの?忍耐力の勝負で、拷問で、自己犠牲?終わったら私、カウンセラーに飛び込む必要あるんじゃない?くらいの勢い。今思うと日本で最初に参加した勉強会が、自分に合わなかっただけですが、以来、10年単位で避けていたのだから、第一印象の重みったら半端ないです。それでも日本傾聴能力開発協会に興味を持ったのは、HPの「まず自分から楽になる」のひとことに尽きます。ナニコレ!傾聴は「我慢」しなくてよいらしい参加するっきゃないでしょう?(笑)

受講してわかったこと:傾聴は、切り替え。

我慢して聴くはないけれど、自分と根気よく付き合う必要が出てきました。話し手を映し出す鏡であることが傾聴なら、結局、自分も相手に映っていってます。考え方のクセ、自身の意識のクセ、その他もろもろ、自分が普段意識しなかった点、意識したくないと無視していた点、敢えて無視も意識もしなかった点が、どんどん、どんどん、見えてきます。練習すればするほど、見えてくる。多分、終わりはなさそうです。完成がないあたりは、哲学絡みのヨガや陰陽理論にも似ているなと感じます。そして、傾聴してもらうと、すっきりする(笑)フルマラソンを走った後のようにすっきりすると同時に、あちこち動きが鈍くなったり、痛かったりもします。トレーニングが足らなかったところ、最初から痛めていたところ、疲れがたまっていたところ・・・などなど。自分でわかっていても、意識をしなかった部位を意識せざるを得なくなる。練習で走ってみて、気が付きました。

【結論】相手の話を聴きたいと思っていた私は、誰かに、寄り添って、自分の話を聴いてほしかっただけ。

知ってしまったら、向き合わざるを得なくなりました。楽しくないけど、楽しい。複雑です。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?