ナナメ/naname

ナナメから直視する。フォークでロックな音楽やってます。哲学科卒。noteでは、日々自分…

ナナメ/naname

ナナメから直視する。フォークでロックな音楽やってます。哲学科卒。noteでは、日々自分が思ったことを、自分の考え素直なままに書き連ねたいと思っています。 Twitter : https://twitter.com/NanameMusic Youtube「ナナメフォーク」で検索!

最近の記事

あまりに良い詞が書けたので先に発表しちゃいたい。

ナナメ/nanameとして音楽活動をしている私ですが (Twitter : https://twitter.com/NanameMusic) 私が目指している詞世界とは、 「曲がなくても飽きずに、文字だけで訴求力のある詞」 でして。 そんな詞が書けたような気がするので、 曲に先んじて詞だけ先に公開しちゃおうということです。 曲自体も、7月中に発表できそうですが。 一足早めに↓ プラトンアライブ 人の意味は決められていなく、 そうであるならばなぜ生きていくの

    • 資本主義経済の中で、「存在する」ということ。

      「全ての理性的存在者は、いかなる場合においても汝自身及び他者を単に手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に目的として扱うように行為せよ。」 これは、「定言命法」として有名な、ドイツの哲学者カントの言葉である。 多くの人間は資本主義経済の中で、労働者として生活する。 お金という対価を払われて、労働させられる。 労働者とは、会社の目的を達成するための手段だ。 いやしかし何も、労働者を「手段としてのみ」扱っている企業ばかりではないことは百も承知である。 実際、カントが強

      • 友を選別する時がきた。

        人間は本質的に利己的な生き物である。 愛も友情も道徳も、全ては人間が進化と自然淘汰の中で身につけた生き延びる術であり、それら利他的行為は、全て自利に適っている。 これらのことは、進化生物学が明らかにした人間の本質である。 (興味を持った方は、進化生物学の代表作、ドーキンス『利己的な遺伝子』などを読んでみるといい。) このコロナ期、終わりの見えない外出自粛にストレスを溜め込んでいる方も多いだろう。 いつになったら、正常に戻るのだろう。早く元どおり遊びたいね。 しかし

        • 反韓、反中について。−永遠平和のために

          近年特に、日本人の間で反韓、反中思想が表面化されてきていると思うのは私だけではないだろう。 SNSの広まりとともに手に入る情報量が圧倒的に増え、 また一般人でも簡単に自身の思想を表現できるようになった事がその要因だろうか。 韓国側の反日感情も、(一部だとしても)非常に高いように思える。 スポーツ大会に政治的感情を持ってきたり、 日の丸を踏みつけたり、 慰安婦問題を中心に両国の間に意見の食い違いが生じていたり。 日中問題も課題が山積みだ。 やはりまずは領土問題。

        あまりに良い詞が書けたので先に発表しちゃいたい。

          2021年は音楽の年になる。

          2020年。新型コロナウイルス大爆発。 それに伴い、数々の音楽イベントは根こそぎ皆、中止。 それだけに留まらず、 無数のライブハウスが経営破綻、閉店に追い込まれている。 既に売れているミュージシャンたちは、演奏できる機会が全て奪われた。 ライブハウスが潰れ、育ち盛りの若いバンドマン達もみな、芽を摘まれたに等しい。 メディアのみならず一般企業にもコロナの影響は計り知れないが、 やはり音楽業界は一番大きな損害を受けた業界の一つであろう。 しかし、 2021年は音

          2021年は音楽の年になる。

          哲学は絶対に流行っちゃいけない学問である

          東京では、まだまだコロナウイルスが猛威を奮っている。 様々な噂・憶測が毎日洪水のように流れ込み、 携帯を見ても、テレビを見ても、嘘か本当かわからない情報で溢れかえっている。 国民は不安でいっぱいだ。 何が正解かわからない。 トイレットペーパーを買い漁る人、 首からぶら下げる「ウイルスシャットアウト」なる商品を身に着ける人、 換気をしていれば大丈夫、と、外食や面会をする人。 各人が信頼できると判断した情報を、各人が信じて実行している。 人々はもう政治家を信じて

          哲学は絶対に流行っちゃいけない学問である

          人間に生きる意味なんてない。

          コロナウイルスの影響で外出自粛が続く中、 そんな状況にも少し飽き飽きしてきて、生活にメリハリがなくなりつつある。 オンライン授業、リモートワークなど、それぞれが自宅で学生や社会人として 生活しているにせよ、実際に仲間と直接会うわけでもなければ、 通学、通勤しているわけでもない。 当然、どこか旅行に行ったり飲みに行ったり、ということもないだろう。 そんな中、「私はなぜ生きているのか」と疑問に思う人もいるかもしれない。 実際にSNSでも、それによく似た投

          人間に生きる意味なんてない。

          noteを読んでいると。 −自我の話。

          先日からnoteをほぼ毎日(?)投稿している私ナナメであるが、 noteというコミュニティを眺めてみると、 「世の中にはこんなにも自分の思いを表現したいと思っている人がいるのか」 と、ある種衝撃を受ける。 言いたいことも言いにくい社会の中で、 そしてそんな社会を受け入れて生活している中で、 こんなにも、未だ「自我」なるものを保っている人がいるのか、と。 そりゃ、日本の総人口と比べたらnoteをやっている人なんて決して大多数とはいえないだろうし、 「自我」を捨て

          noteを読んでいると。 −自我の話。

          こんな暗いご時世だから、生きる意味についてでも考えてみよう。

          新型コロナ、大蔓延中。 日に日に死亡者が増えていくニュースを見ると、改めて生きていることのありがたみを実感する。 しかし、ちょっと立ち止まってみよう。 そもそも、私は、あなたは、なぜ生きているのか。 両親が子作りし育ててくれたから、なんて生物学的な答えを求めているわけではない。 あなたはなぜ生きているのか。 言い方を変えれば、「何のために」生きているのか。 俺は「仕事のために」生きている。 そういう人も一定数いそうだ。 しかし、仕事ができたから、何なのだ?

          こんな暗いご時世だから、生きる意味についてでも考えてみよう。

          新型コロナによる人々の行動の「責任」について -個人の発言や行動に責任は伴うのか?

          注:本記事は「責任」という概念についての哲学的な一考察であり、政治的な意味は一切含まれておらず、また外出を推進するものではない。 誰もがご存知の通り、現在は、世界中で新型コロナウイルスが蔓延し、我が国でも「外出自粛令」なるものが出されている、非常事態の真っ只中である。 それに伴い、企業や学校は次々と自宅待機を命じ、新宿や渋谷でさえも誰も人がいない、「ありえない」状況に陥っている。 そしてこんなご時世、不要不急の外出者は悪とみなされ、そうした人たちは「無責任だ」と多数の人

          新型コロナによる人々の行動の「責任」について -個人の発言や行動に責任は伴うのか?

          音楽との接し方 -孤独者とロックを例に

          ”ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。 ただ、悩んだまま踊らせるのだ” - Pete Townshend 多くの人にとって音楽は一つの娯楽であろう。 音楽は気分を高めてくれたり、リラックスさせてくれたりする。 フェスやライブに行けばみんなで歌って踊って、 ドライブなんか、ちょっと爽やかな曲があれば尚更気分が高揚する。 今回のnoteは、 そうした音楽好きのためのものではない。 「誰も私を理解してくれない」 「心

          音楽との接し方 -孤独者とロックを例に

          学生は社会人に突然変異する。その薄さ。

          講義をろくに聞かずケータイをいじったり、 時にはサボったりしていた学生が、 4月になると、新人研修で必死にメモをとる。 「元気が足りない」と言われれば大声で挨拶し、 「お辞儀が揃ってない」と言われればピッタリと息を合わせ、 姿勢を正して、大学講義の数億倍つまらない研修を頷きながら受講する。 よくありがちな光景であろうが、 私は全くそれになじめない。 気持ち悪さを通り越して、笑けてきてしまう。 もちろん仕事だから、しっかりと言われたことをこなすのは大切だ。

          学生は社会人に突然変異する。その薄さ。

          おじさんと経験の話。 −白色のカラス

          つい二週間前に社会人になったばかりの青二歳から、 世のおじさんに向けての話。 といっても、おじさんに限定する話でもなく、 むしろおじさん以外の多くの人も当てはまると思うのだが。 前回までのnoteは、自分から見ても割と個性的と言うか、 僕だけの「変人的な」世界の見え方を紹介できたように思える。 そしてそれ故の面白さもあったと思う。 しかし今回のnoteは、モノの見方がわかっている方々には 当たり前の話で、人によっては少々物足りなくなるかもしれない。 物足りな

          おじさんと経験の話。 −白色のカラス

          山田さんは山田さんなのか

          日本人、いや、世界中の人々はおそらく、 自己紹介して、と言われると、 「私、A子と申します。」 「株式会社○○のB郎です。」 などと答えるだろう。 至極当然の会話である。 しかし私はいつも、何で???と疑問に思ってしまう。 仮に私の名前が「山田太郎」だったとする。 すると当然挨拶の際は、「山田太郎と申します。」と言うことになるだろう。 しかし、「私」は「山田太郎」なのだろうか。 当然社会生活を営むにあたり、自分の名前を「私」として名乗ることは 当たり前の

          山田さんは山田さんなのか

          新社会人、一週目を終えて。 −「刺激」と道徳

          金曜の夜は、高くていつも手が出ない、帰宅路のオムライス屋さんに入ってしまった。 先日からnoteを始めました、ナナメ/nanameです。 (自己紹介は一つ前のnoteに記入。是非ともご一読を!) これまでは生きる時間のほとんどを音楽に費やしてきた私ナナメですが、 実は先月大学を卒業し、4月からは新卒、フレッシュマンなのでして。 それはそれは、超フレッシュに勤務しております。 本日は、そんな「社会人一週目」の、 グルグルグルグル動き回った私の頭の中を紹介したい。

          新社会人、一週目を終えて。 −「刺激」と道徳

          [自己・思想紹介]ナナメから直視する。

          noteには初投稿となります。 私はナナメ/nanameと申します。現在都内にて音楽活動中。(詳しくはTwitter @NanameMusic、もしくはYoutubeで「ナナメ フォーク」と検索!) 私の音楽については別途投稿するとして、突然ですが、 正しい、って何でしょう。 何をもって、ある事象や概念が「正しい」という評価を得るのでしょうか。 あなたにとっての正しさが、誰かにとっては正しくないことも往々にあるでしょう。 それは、「正しい」と言えるのでしょうか。

          [自己・思想紹介]ナナメから直視する。