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新社会人、一週目を終えて。 −「刺激」と道徳

金曜の夜は、高くていつも手が出ない、帰宅路のオムライス屋さんに入ってしまった。


先日からnoteを始めました、ナナメ/nanameです。

(自己紹介は一つ前のnoteに記入。是非ともご一読を!)


これまでは生きる時間のほとんどを音楽に費やしてきた私ナナメですが、

実は先月大学を卒業し、4月からは新卒、フレッシュマンなのでして。

それはそれは、超フレッシュに勤務しております。


本日は、そんな「社会人一週目」の、

グルグルグルグル動き回った私の頭の中を紹介したい。



一週目、4月1日は水曜日、つまり水木金とたった3日間の出勤であったが、

非常に多くの刺激を受けた。

それは、初めての上司、競い合う同期、といったありきたりな刺激ではなく、

甚だしく丁寧に扱わなくてはいけない、

非常に容易に「私」という存在を死に至らしめうる、

恐ろしい刺激であった。

現在世界中ではコロナウイルスが猛威を奮っているが、

「私」という人格、自己を破壊することに関しては

コロナなんかよりも格段と注意しなくてはいけない刺激だ。

少しでも気を抜けば、

「私」は容易くこの刺激によって侵されてしまう。

そんな気がして、いま現在でも非常に心が新生活を警戒している。


ちなみに、

私の勤務する会社は、いわゆる「ユルい」部類の会社であって、

古臭い考えや常識に固められた昭和の会社でもなければ、

「ブラック企業」なるものでもない、(むしろめちゃくちゃホワイト。)

非常に働きやすい、そんな会社である。

それを踏まえて(そんな優れた会社でも、という目線から)、私の心の葛藤をご賞味ください。



さて、「私」を今にも殺そうとしている


「刺激」とは、


「「これからはビジネスをもとに、人格を形成する」」


という、世界からの宣告のことである。



少なくとも、資本主義をもとに社会が形成されている日本では、

社会生活を営むにあたり、仕事に合う人格こそが「目指すべき人格」なのであり、

新入社員にはまずその「仕事に合う人格とは何か」ということが教育される。

まるでそれが絶対的・普遍的な正義であるかのように。

「人として当たり前のこと」などというフレーズもつけられることもあるだろう。


もちろん今のご時世、軍隊のような全体主義的教育をする会社は少なくなってきつつあるが、

それでもどんな会社もその目的は「利益獲得」なのであって、

そもそもそのために我々新入社員に内定を出したのだから、

会社の側に立てば、そうした「人格教育」が何ら当たり前のことであるくらいは私にもわかっている。

それに真っ正面から異議を唱えるつもりなどないし、

そこに従わないなどという現実離れした、まさに「学生気分な」抵抗をしようとも思っていない。内定辞退せずに入社したのはこっちなんだから。



しかしそれでも、

「違和感」は残るのだ。

そしてその違和感は、

「人材」としての私ではなく、

「人間」としての私が、感じているようだ。



例えば他者に優しくするのは、本当にその他者のことを思って行為したときに

評価される、そう思っていた。

しかしこの社会によると、その行為が評価されるのは、

「自分の評価に繋がるから」

「そうすると会社もうまくいくから」

「給料が上がるから」

のようだ。


あるいは、外回りから帰ってきた上司にお茶を出したり、

自社に来たお客様に気を遣ったりするのも、

「それが自身や会社の評価につながるから」

率先して取り組むべきだと言われるのである。



「道徳」は「自己利益」なのだろうか。

「自分の利益になるから」、それは「善い」のだろうか。


また、


「自己利益」「自社利益」にならない個々人の「人格」は

変えなくてはいけないのだろうか。



社会人たるもの、そんなプライドなど捨てて早く社会に馴染め。

それが普通なのかもしれない。


しかし私は、

「社会人」である前に、一人の「人間」である。



大人は「うまく折り合いをつけて」と、私にアドバイスしてくれるだろうが、


きっとそれでも悩んでしまう、

私はそんな人である。



「折り合いをつける」のではなく、

本当の自分を残したまま、

社会の自分と両立させたい。


「折り合いをつける」と「両立」は違う、

そう思いたい、社会人一週目であった。




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