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新型コロナによる人々の行動の「責任」について -個人の発言や行動に責任は伴うのか?

注:本記事は「責任」という概念についての哲学的な一考察であり、政治的な意味は一切含まれておらず、また外出を推進するものではない。


誰もがご存知の通り、現在は、世界中で新型コロナウイルスが蔓延し、我が国でも「外出自粛令」なるものが出されている、非常事態の真っ只中である。

それに伴い、企業や学校は次々と自宅待機を命じ、新宿や渋谷でさえも誰も人がいない、「ありえない」状況に陥っている。

そしてこんなご時世、不要不急の外出者は悪とみなされ、そうした人たちは「無責任だ」と多数の人・媒体に非難されている。

確かに、新型コロナは潜伏期間が長く、無症状の感染者も一定数いるため、自分が知らないうちにクラスターとなっていることも往々にしてあり得る。そうした危険性を無視して外出する人に向けて、人々は皆「無責任」という言葉を投げつけるのだ。


しかし、そもそも「責任」とは何なのか。


インターネットで「責任」と検索すると、一番上に

”人や団体が、なすべき務めとして、自身に引き受けなければならないもの”

と、説明されていた。


しかし、我々になすべき務めなど、また引き受けなければならないものなど、果たしてあるのだろうか。



神からの啓示などではなく、あくまで普通の生き物である両親によって作られた我々は、「生まれながらの」規律やルールなどは持っていない。

我々がここに存在するのは、神からの使命でもなく、運命やキセキなどでもなく、ただ「両親が子作りしたから」である。

そしてこれはもちろん人間にだけ与えられる特殊性ではなく、全ての生き物がその生の営みの中で行われる行為である。


「生まれながらの」規律やルールを持っていない我々は、自由である。束縛がない、という意味での、自由である。

そうした中で、「責任」は、ある/ない の問題ではなく、そもそも責任という概念自体が実は「成り立たない」のではないだろうか。

法律や社会の規律はあくまでも後天的に作られたルールなのであって、それらは基本的に全て「社会をうまく運営するために」必要なルールであろう。つまりは、「人間が共存していく中で人間に作ったもの」。

有史以前、未文化時代から存在している人間にとって、法律はあくまでも後出しジャンケンであり、そこに無条件性・普遍性を持った説得力はない。


つまり、よく言われる「生きているから責任がある」「大人なんだから責任を持て」というのは、その根拠が不瞭だ。


とはいえ、みんなが「責任」という言葉を使うことの真意はただ、

「みんなのことを考えろ」

という一点だろう。

しかしそうしたところで、

果たして個人がみんなのことを考える務めはあるのだろうか。

そしてあるなら、それはなぜか。




もうそんなめんどくさいこと考えずに、みんなのため、そして自分のためにも外出は控えようね。それでいいじゃん。

実はここまで書いた私も、そう思っている。


ただそう思う一方で、こんなにめんどくさいことも考えてしまう、

そんな外出自粛期間なのです。




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