資本主義経済の中で、「存在する」ということ。
「全ての理性的存在者は、いかなる場合においても汝自身及び他者を単に手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に目的として扱うように行為せよ。」
これは、「定言命法」として有名な、ドイツの哲学者カントの言葉である。
多くの人間は資本主義経済の中で、労働者として生活する。
お金という対価を払われて、労働させられる。
労働者とは、会社の目的を達成するための手段だ。
いやしかし何も、労働者を「手段としてのみ」扱っている企業ばかりではないことは百も承知である。
実際、カントが強調していたのも、文中の「のみならず」。
手段として扱われる一面を受容した上で、大切なのは決して「手段のみ」になってはならない、ということだ。
またしかし、
「手段として」という観点がどうしても資本主義には大きくつきまとう、
というのもまた事実である。
資本主義が資本主義である以上は、仕方がない。
これを資本主義に対して言ってもお門違いですらある。
問題はその中で、
どう「存在」するか。
ここでいう「存在」とは、
ただただそこにいる、ただただ会社に所属している、というわけではない。
そこに「在る」、のが、存在、である。
これは、(私流のカント解釈になるが、)
「目的として扱われている」ということを意味する。
(日本語の「存在」より、ドイツ語のDaseinの方がしっくり来るかもしれない。
しかしここでDaseinの説明をしてしまうとカントだけじゃなくて
ハイデガーとか色々めんどくさい展開になりそうだから、
一旦エポケー。)
資本主義をうまく受け入れて、要領よく手段として生きるもよし。
最後までそれに抗うもよし。
社会人一年目の私は、
とりあえず社会の観察から始めている。
一体、社会は善なのか悪なのか。
大人たちは、本質を忘れてはいないのか。
何のために生きているのか。
それらはまた、次回の話。
資本主義 と 「存在する」
噛み合わせること、できるのかなぁ。
つまり、
今の世界に、「人間」はいるのかなぁ。
ということでした。
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