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音楽との接し方 -孤独者とロックを例に

”ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。 ただ、悩んだまま踊らせるのだ”  - Pete Townshend


 多くの人にとって音楽は一つの娯楽であろう。

音楽は気分を高めてくれたり、リラックスさせてくれたりする。

フェスやライブに行けばみんなで歌って踊って、

ドライブなんか、ちょっと爽やかな曲があれば尚更気分が高揚する。


今回のnoteは、

そうした音楽好きのためのものではない。


「誰も私を理解してくれない」

「心が滅入って、生きてゆけない」

といった、娯楽としてではなく、

文字通り精神安定剤として、つまり生きるために音楽を聴いている、

そうした「音楽との向き合い方」を、

私の自己紹介の代わりとして、提示したい。

(先ほどは突き放したが、前者のような「純粋に音楽を楽しんでいる人」達も、

こうした音楽との向き合い方をしている人がいるのか、と、新たな発見となれば

幸せである。むしろそれが、この記事の真の目的かもしれない。)



私は孤独である。

と言うと、ナルシズム全開のイタいやつに思われそうであるが、

別にカッコつけているワケではなく、

普通に友達と遊び、普通に恋愛し、普通の社会の中で普通に生活をしてきた中で、

「理解者」なるものに中々巡り合えない。

これは私の行動範囲が狭いとか、他の人と比べて出会いが少ないとか、そういった

問題ではなく、

私が「極めて少数派に位置する」ことに起因している。


かといって、別に社会不適合なわけではない。むしろ、他者から一定の信頼を得

て、リーダー的なポジションを任されることも多い。

しかし、そうした社会の中の私は「私」ではない。


例えば結婚。その本質は愛で、お互い惹かれあった異性同士が一生寄り添うことで

あろうが、特に現代社会では結婚の条件に経済力などを挙げる女性も少なくない。

それは、資本主義経済を軸とする今日において極めて現実的な嗜好であり、自身の

生命を保持するための、相手に求める「必須条件」かもしれない。


しかしそれは、「愛」なのだろうか。


例えば道徳。その本質は善で、自身の利益ではなく、「相手のため」を最優先に

行為することがその善なる所以であろうが、企業がお客様を手厚くもてなすのは自

社利益のためである。


それは「善」なのだろうか。



私はどうやら、現実や利益ではなく、物事の「本質」を大切にしているようだ。

そして、世の中が「本質」ではなく、「現実」や「利益」をその行為基盤にしてい

るがために、私のような人間は非常に生きにくい。

社会に「私」の居場所はないのだ。


さて、


ロックの本質は「弱虫負け犬のため」の音楽であることのように思える。

しかし現在の日本のロックはアップテンポで長調の曲も多く、

その本質が「弱虫負け犬」であることに疑いを持つ人も多いことだろう。

されど、ロックの先祖はブルース、つまり黒人音楽である。

人種差別が当たり前であった時代の、労働者階級の黒人の音楽がブルースである。


歴代のロックミュージシャン達は、常に「負け犬の視点」から、

そのフラストレーションを爆発させてきた。

黒人でありながらも自由を歌いきったジミヘンドリクス。

社会に適合できず、それでも自分の信じる愛を貫いたフレディマーキュリー。

一生かけて孤独と戦い自身を問うたカートコバーン。

ロックはどれも「負の感情」を基に、社会に対する「理不尽さ」を訴えてきた。



心の病を抱えた者に必要なのは、解決策ではなく理解であると聞く。

私は音楽の一消費者であると同時に、作編曲もする一生産者でもあるが、

「楽しませるため」ではなく、

「理解という手を差し伸べるため」に音楽に携わっている。



音楽は、優秀な娯楽である一方で、

生きるために必要不可欠な「理解者」でもあるのだ。


私は、「私」として生きるために音楽を聞く。作る。

こうした観点から音楽を大切にしている人も、おそらく一定数はいるだろう。


生きるために、必死に音楽にすがる日々。

周囲からの理解は得にくいかもしれないが、私はそうして生きてゆくしかない。




P.S.

↓私自身の楽曲達である。

 決して宣伝目的でこの記事を書いたわけではないが、興味があれば是非。








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