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子どもをコントロールしたら自分が自由でなくなる

 英語教室で子どもたちと一緒に過ごしている。気をつけるのは「対話」そしてその日の子どもたちの様子から感情を読み取ること。
あれ、今日はきっと学校で嫌なことあったんだね。来る時におうちの方に叱られたかな。明らかにいつもと違う雰囲気の時もあるし、上機嫌でどんどん英語を知りたい知りたいと吸い込んで帰ることもある。
 私が気をつけるのは、そういう子どもたちの波に任せるということ。元気がない時に元気を出せ、と言うのは酷。またやる気が全く起きない、心配事があって学ぶどころではない、そんな時はゆっくりとスタートして楽しめる活動を入れてみたりする。その子がいつでも入ってきやすい様な雰囲気で。

 授業中に歩き回る子もいれば、床に寝そべる子もいる。でも基本は自分が学びやすいスタイルで学んでいいということにしている。
 ただ一つ、私からのお願いは「自分が学びやすい」を全員に感じて欲しいということ。自分が学びやすくするために、友達の前に立ってホワイトボードを見づらくしたり、大きな音を立てて聞こえなくしたり、そういうことはしないで欲しい。でもあなたのスタイルも尊重するよ。
 それで大体毎回レッスンは楽しく出来ている。

 水筒のお茶はいつ飲んでも良いし、トイレにもいつ行っても良い。授業中寝てたら、ゲームする時に起こしてみるね。そんな感じ。
ただ、時々学校などで恐れられているずーっと水筒のお茶を飲んでいる子、またお茶をこぼす子だって出てくる。そうなったら対話のチャンス。
 学校でお茶を飲む時間が決まってるルールって、どうしてあるんだろう?と尋ねると子どもたちがたくさん理由を聞かせてくれた。「授業に集中出来ないから」「お茶を全部飲んでしまったら、災害時などに困るから」「教科書の上とかにこぼすから」…小学1年生でよくそんなに知ってるもんだね、というくらい教えてくれた。そこまで分かってるのに、やっちゃうのもまた面白いんだけど。
 「あのね。先生がこの教室でいつでもお茶を飲んでいいよってしてるのは、みんなの体がいつ水を欲しがっているか先生にはわからないからです。先生の知らない間にみんなが『苦しい!』ってなったら大変だからね。だから必要な時を自分でちゃんとわかって、体にお水をあげて欲しいと思うの。
でもね、どうしてもお茶が手元にあると水筒で遊びたくなっちゃう。せっかく英語を話そうと思っても水筒が邪魔しちゃう、だから先生に禁止にして欲しいです、って人がいたら教えて。その時は先生も協力します」

 そういうと、子どもたちが「自分は大丈夫です」みたいな顔して水筒で遊ぶのを止める。手遊びとかって、意識してないからついついしちゃう。私もわかる。でもよく考えたら、ないならないで良いこともある。対話をしながら、知識と経験が結びつけば自分の意志で生きていける気がする。納得出来ないなら出来ないで、特別な理由でもあるのかなと思って私も理解しようとするし。

 子どもは小さくて未熟で素直で大人がコントロール出来る、って思ってしまいがちだけど。そもそも子どもが「コントロールされ慣れる」ことは怖いことだし、コントロールされている限り学びが前のめりにならないと私は思う。もちろんここで言う学びはテスト勉強とかよりもっと深くて面白いこと。
 そして皮肉なことに、その自発的な学びが出来る人こそ人生を楽しめる人だと思う。ずっとコントロールされっぱなしでテストに追われて、学びイコール将来のための準備、みたいな子ども時代を過ごしていると、いざ大人になって何かを自分の判断でする時に必要な価値観が人のものさしになりやすい。そして人のものさしって揺らぎやすいので、それに翻弄されてしまう。

 自分の頭で考えて経験や思考から自分のものさしを持ち、それをどんどんバージョンアップしていく生き方は自由で楽しい。
 大人になるとよりそれを強く感じる様になった。かく言う私自身もそういう部分(人のものさしを気にして苦しむ)があったから、今こうして子どもたちと対話しながらどんどん自由になって自分の価値観で生きている楽しさと魅力を伝えられる。

 私の教室では、私が子どもたちに学びって楽しいよ、って伝えるんじゃなくて子どもたちが私にそれを教えてくれる。それで良いと思ってる。人に教えること伝えることで、気付くことだってあるものね。自由なアイデアや発想を教えてくれるのはいつも子どもたちだから、その子どもたちを不自由にしてしまったら、大人もいつまでも自由になれないと思うのだ。


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