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「やらせれば出来る」もんなのか?

英語教育の迷走

 そもそも私の専門は児童英語および英語教育だから、英語の切り口一つ取ってみても、その舵取りの酷さは目を覆わんばかりだ。そりゃ「小学校でも英語してくれる」ってなると「英語教室に通わせなくてもチャンスがある」と喜ぶご家庭もあるだろう。でもプールと同じ。以前我が子の懇談会である保護者が「学校の水泳の授業では、泳げる様になるんですか」と先生に尋ねていて、先生が口籠もったのを思い出した。

 みんなそれを思い出すべきだ。英語もプログラミングも。学校でちらっと見せてもらって、もっとしたい人は教室へ通いましょう、みたいなプロモーション活動になっている。私はそれで良いと思っている。そもそも学校は「学びの種」を拾いに行く場所。そこで虫に植物に天体に歴史に…いろいろなものに興味を持って家に帰り、自分の自由な時間で探求を深める。学校はきっかけ作りに最適な場所なのだ。

 だから、それ以上に過酷な宿題を出して子どもの探求の時間を奪ったりしてはいけない。そもそもそういうものなのだ。
 誰が希望してこんなにイベントが増えたのか、こんなにサービス過剰になったのか。ここまで増えたらもうありがた迷惑。

 英語に関して言えば、2011年以前に多くの専門家が心配していた通り英語のハードルを上げたり下げたりした結果、現場も親も迷走。現状、高らかに「小学校の英語に遅れを取らない様に」と煽った塾の勝利。結局英語がまた一つの格差を生むことになった。子どもたちが自分にがっかりする機会を産んでしまったということだ。一部の民間が喜び、多くの子どもたちや親が希望を断たれ、そして現場は疲弊する。そんな○○教育。

そしてまた一つ現れた○○教育

 「起業家精神」教育なるものが学校教育に組み込まれていくのか、みたいな記事が出た。私がフィールドワークをしているtwitter上では教師たちの悲鳴が聞こえてくる。英語、プログラミング、キャリア教育に命の教育、性教育…バラエティーばかり増えて、中身はスカッとしていたりこの準備のために教師が疲弊したり。

 子どものためというよりは「こんな人材がいると助かるなぁ。じゃ、これ学校でやってみっか?」とか「なぬっ、アメリカでは起業家がこんなにいるらしい。負けてはおられんぞ、学校でやっちゃえば生徒の中の数人にひっかかるかも知れんぞ」みたいなノリでやってるとしか思えない展開。「やらせればするだろう」「全員じゃなくていいんだ。一握りでも増えれば善しとしよう。成績の良い人間をスーッと掬って…」みたいな、自分たちがちょっときっかけを作ったらこんな風に変わるだろう、という奢りの姿勢が見えてウンザリする。人を、教育を馬鹿にしているのか。

子どもは大人のためのコマという考え方

 以前何かの本で、添加物たっぷりの食べ物を作っている会社の人が我が子がそれを食べようとするのを目にして全力で止めた、というくだりを見て愕然とした。子どもたちが「美味しい」と言って食べるものをお金儲けの手段で作りつつも、我が子がそれを食べることは耐えられなかったという話。
実はこれに似た話はたくさんあって。スティーブ・ジョブズも自分の子どもに簡単にスマホやipadを与えなかった、という話は有名だ。

  悲しいけれど、子どもであろうが容赦無く中毒にしてそこから儲けようと思う人は山程いる。聞こえの良いCMや一見子どものことを考えて…みたいな言葉の裏に大人の欲が見え隠れするのを、私は日々嫌と言うほど見ている。
 皮肉にも教育を生業にしながら、私はそれでもその大人の欲とは線を引こうと日々もがいている。毎日自問する。日々確認する。
もしそこで私の中に「自分が認められるために、子どもに成果を出させる」という気持ちをほんのわずかでも見つけたら、私はこの仕事を止めようと思っている。若い頃は、いやほんの数年前まではそんな気持ちがあったのも否めない。それに気付いた時には心底自分にガッカリしたが、その時にずっと心にあった変なつかえが取れた気がした。

魔法が解けた

 大人のための子ども、そんな仕組みが綺麗に頭から落ちた時、私の目に映る景色は変わった。そこから見える景色の中で、子どもたちは輝いていて大人はくすんでいる。子どものSOSがより見える様になってしまった。でもそれを大人に伝えることの難しさに苦しむ。
 大人が無目的でただ慣習に倣って行うこと、かける言葉の毒。それを信じてついていき、ボロボロになっていく子どもたち。

 魔法が解けて見えた世界は目を覆わんばかりだが、その中にいるしかない私は自分の役割を考えた。そして今。

 ○○教育に翻弄される大人と、それを信じてついていく子どもたち。
私の目にはその間でポロポロと落ちていく子どもたちの宝が映る。みんな一緒で安心。みんな同じがいい。やればできる。ついてこい。本当にそうかい?
あなたは特別。あなたには力がある。本当にそうかい?
 子どもたちが自分の手で、目で、心で味わう機会を奪って大人が全部決めて教えてあげなくても、子どもたちはもっと鋭い感性を持っている。

 私は「味わう」ことを子どもたちと楽しみたい。「最短距離」を走らせようとして穴ぼこや谷に落とすよりも、時間をかけてじっくり道中を楽しもうじゃないの。

 少なくとも私は子どもたちが味わう姿を見ていたいから、先生だ。

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