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本当の学びは時間の無駄遣い

 最近とてもすごいことを発見した!と思う。
私は、兼ねてより違和感のあった「大人の希望を叶えるために勉強する子どもたちの姿」をうまく説明できずになんとなく悶々としていた。
勉強さえしてるフリをしていれば、親は先生は満足なんだろう、というある意味自分の人生を生きることを諦めた子どもたちの姿は見ていて悲しく、学びの喜びとは対極にあった。でもそれでも「勉強している(様に見える)姿が美しい」という価値観に対抗出来る程の何かが言葉に表せず、どうしたものか...と考え込んでいた。

それ、テストに出ますか

 子どもたちの言葉で私が気になるベスト3は以下の通りだ。
「それ、テストに出ますか」
「それって時間の無駄ですよ」
「今日はゲームとかおしゃべりばかりで、勉強しませんでしたね」

 まず「テストに出ますか」、これは私もあまりの大きな渦に半分腰までさらわれそうになりつつも違和感を覚えていた。一番怖いのは、何かを手に取るか取らないかの基準が「テストに出るかどうか」になってしまっている子どもたち。とても残念。学びの楽しさを捨ててしまっている気がするから。

 そして「時間の無駄」。これを教えた大人は前に出てきて欲しい。おしりペンペンします。いや、体罰はダメです。撤回します。
皆さん、思い出してください。子どもの頃って「無駄の塊」じゃなかったですか。試行錯誤する時に、一番良いと思われる方法を見つけるまでの数々の実験(それを失敗と呼ぶ人もいる)。学校から帰ってきておやつのおせんべいをくわえながらテレビを見るひととき。夏の夕方に不気味なほどのピンク色に染まる空を見てボンヤリする時間。私たちの子ども時代はそんな一見無駄に見えるもので構成されてはいませんか。それがなんですか、自分の生徒や子どもたちには隙間も与えず課題を与えて。子ども時代を唯一構成する大事な無駄を奪うつもりですか。

 最後に「今日はゲームとかおしゃべりばかりで全然勉強しませんでしたね」はい、私にとってはゲームとおしゃべりが勉強です。あなたは何を勉強だと思っているのですか、と問いたい。まだ生まれて数年しか経っていないあなたたちは、学びや勉強をなんだと教え込まれてしまったのですか。

 「ゲームで勉強するのは楽しいです」「先生と話していたあの国、地球儀にありました!」そんな柔らかな頭の子どもたちの言葉には、心の底からホッとさせられる。

頭のいい人

 私は「頭がいい」という言葉が安易に使われるのを嫌う。目の前のテストの点が良かったからといって、頭の作りまでもが評価されてしまうのか。子どもたちが「今度の社会のテストではもっといろいろわかるといいな」という様な具体的な目標ではなく「頭が良くなりたい」などという漠然とした目標を掲げてしまうのには、安易に大人が「頭が良いことは素晴らしい」と讃えるところに原因がある。

 本当の頭の良さは、「知りたい」と思うことを言うのだと思う。
そしてその「知りたい」は人の性質や生まれつきの素質ではなく、習慣や人との関わりの中にもあると言える。

 私が関わってきた子の中には、いわゆる偏差値高めの学校に必然的に行くだろうな、という子と親の希望で無理矢理なんとかねじ込まれるんだろうな、という子がいる。

 前者は「知りたい」欲の強い子で、私が質問を募ると何かしら質問をしてくれる。学びに前のめりなのだ。しかもいわゆる「無駄」を選んでいる様に見える。そしてそれを面白がりながら見守る親や先生がいるという幸運。そんな子は教師が雑談を始めると面白がってそれを聞き、そこで得た雑学を人に話したりして楽しむ。それが「テストに出るかどうか」ではなく、それを「楽しい」と思ったから人に話すのだ。ご存知の通り、人に伝えることで学びはより深まって定着していく。たかが雑学でも、その子には必然的に他の人よりも知識が増えていく。新聞の隅にあるコーナーからある国の食糧事情を見つけ、学年だよりに先生が書いた魚の種類を覚えていたりする。身の回りが全て学びで、その子にとって自分の知らないことは、いつもキラキラ輝いているのだ。そして、そんな子は「テストに出るかどうか」を気にせずとも幅広い知識と経験値から、結果的にテストへの対応も深くて早い。

 後者は、親や先生に「テストや進学のために必要な」最低限がパックになったものを、近道を使って充てがわれる。テストの点が基準で、自分の周りの人たちがその点数という物理的なものに一喜一憂するもんだから、自分もそれにつられて不安定になる。

 自分を支えるものが「自分が楽しいかどうか」という自分軸の子と、片や「テストの点」や「大人の顔色」というブレ続ける軸の子。つかまっていて自分がしっかり立っていられるのはどちらか、それは明確だろう。

ahaモーメント

 ちなみに学びを深める決定的なものとして「ahaモーメント」というものがあることは、あまり知られていない。英語の "Aha!"、日本語では「なるほど!」「だからか!」みたいな意味で、発見した時。まさに頭の中で電球がピカッと光るあの感じ。
 新聞の片隅、トイレの張り紙、人との会話などの中から得た知識が頭の中に散らばっている子たちは、それを学校などで習うものと結びつけることが出来る。学校でその話題が出た時に"Aha!"と思うのだ。まさに学びが楽しくなる瞬間。それをたくさん持っている子にとって、学びが苦行ではなく発見いっぱいの楽しいことであることは、このaha体験が多いという点でよくわかる。

 大人の不安や「今すぐに結果を出して欲しい」という要望に、子どもたちは必死で答えようとし、多くの子どもたちが潰れていく現実。

 子どもたちは自分の人生を生きる。学ぶのは自分の人生を豊かにするためだ。そしてどうせ学ぶなら、楽しい方が良い。
 どうやったら楽しくなるか。それは子どもたちが一番よく知っている。
私たち大人に出来ることは、それを邪魔しないことだけだ。大人が欲張ってあれもこれも全部100%うまくやれ、と望まないことだ。


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