喜ばせる言葉を散りばめるクセ
ちょっとした言葉です。
ちょっとした会話の中に相手を喜ばせる言葉を挟み込むクセがありました。
たとえば、久し振りに友人と会う約束をし、待ち合わせたとします。
相手は、「よう、久し振り」と手を挙げ、
私は「久し振り、会いたかったよ」と返します。
この場面だけ切り取れば、なんのことも無い友人同士の再会の挨拶かも知れませんが、
「よう」と「おう」でも事足りるし、旧知の仲であれば、その方が場に相応しい場合すらあります。
しかも、私の場合、会う約束はしたものの、内心「面倒くさい」と思っていても、
顔を合わせた瞬間、反射的に相手のフランクな「よう」に、一言プラスするのです。
より親密さを強調し、ある意味、相手の事を想ってますという、へりくだった立ち位置に入ります。
合う前は「面倒くさい」と思っていた相手に、です。
つまり、「会いたかった」は、嘘なのです。
万国共通で社交辞令はあるでしょう。
しかし、顔を合わせた瞬間、内心「面倒くさい」と思っていた相手に、反射的に発する嘘は、社交辞令では無い様に思います。
社交辞令は双方が、ここは社交辞令が飛び交う場、ということを納得ずくで使う、会話の潤滑剤であり、
ワタシとアナタはまだ親しくは無いですが、敵意はありません。
友好的な関係性を望んでいます。
という意思表示でもあると思います。
私が反射的に発する「会いたかった」は、どちらかと言うと、お世辞とか、おだて、に近いと思っています。
お世辞、おだて、は社交辞令よりも、もっと色濃く、自分の利を求める要素が強い様に思います。
社交辞令は互いに納得ずくですが、お世辞、おだては相手に、さも本心であるかの様に思わせる意図がある様に思えます。
私の「会いたかった」は、自分の本心は「面倒くさい」であるにも拘わらず、
相手から好かれよう、いい人だと思われよう、という意図が隠されている訳です。
好かれること、いい人だと思われること、が自分が得られる利です。
反射的に、誰彼構わず発動するのが問題です。
ほぼオートマティックにそうしてしまうのが大問題です。
このクセは、奪う人を多く引き寄せ、与える人を遠ざけます。
不誠実で心に葛藤を抱える人を多く引き寄せ、誠実で健やかな人を遠ざけるのです。
何故そうなるのか、はこのクセが身についてしまった理由を紐解けば明らかです。
幼い頃、親の顔色を見て生きていました。
親が機嫌を損ねたら、痛い思い、嫌な気持ち、を味わいます。
痛い思いはしたくないし、嫌な気持ちにはなりたく無いのです。
だから、親にお世辞を言うし、おだてるし、おべっかを使います。
幼い子供は無力です。
そうやって生き抜いたのですから、反射的に、強迫的に、好かれなきゃと思います。
良い人だ、と思われる様に相手が喜びそうな言葉を散りばめます。
子供に褒めそやされないと自分を保てない親は、心が未成熟です。
お父さんスゴい、お母さんは優しいね、と子供から言われたい親は、
一般的な幼児が、あんよしたら「じょうず、じょうず」と褒められる状況を求めています。
そんな環境を生き抜く為に、相手を喜ばせる言葉を散りばめるクセが染み付いたのです。
しかし、それは情緒が未熟な親の下に生まれ、機能不全家庭という環境を生き抜く為の生存戦略である為、
社会では通用しません。
健康的な親の下に生まれ育った健やかな心を持つ人にしてみれば、
会話の端々に、お世辞やおだて、おべっかが見え隠れする人は、不自然に映ります。
先に述べた様に、お世辞やおだてには意図が隠されています。
本心と乖離した言葉を散りばめる人は、不誠実な人と、健やかなな人には映ります。
機能不全家庭の生存戦略は機能不全家庭でしか通用しません。
機能不全家庭の親が情緒未成熟で、抱える無価値感から目を逸らす為に、
子供から褒めそやされる環境を作る様に、
相手を喜ばせる言葉を散りばめるクセを持つ人の周りには、
親と同じく、自らが抱える無価値感から目を逸らす為に、褒めそやされることを求める人ばかりが集まります。
機能不全家庭で培った人間関係の雛形を使って人生を歩んでいるのですから、
親と同じく、利用し、奪い、傷つける人ばかりが周りに集まります。
自分の人生に、いつも同じ様な困難、
いつも同じ様な傷つける人が現れるなら、
幼い頃に親からもらった人間関係の雛形が、間違っている可能性を疑って見ても良い、と思います。
与える人を嫌い、
奪う人を引き寄せる人は、
なかなか幸せにはなり難い、と感じます。
少しの気づき、です。
紐解けば、光りは必ず見えて来ます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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