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奪われた意思と意志

私を訪ねて下さって、

生きづらさを手放したい、

この苦しみを終わりにしたい、

そう仰る方に、私は、

苦しみの原因から、物理的に離れる事は可能ですか?

と訊ねる事が少なくありません。


生きづらさの原因は、その殆どが幼少期の親子関係にあります。

訪ねて下さる方の多くは、原因の所在までは辿り着いています。

確信は持てていなくても、親子関係にぼんやりとした疑念を抱いている事が多いのです。

生きづらさを感じている人は、生まれてからずっと、生きづらさを創り出す環境に身を置いていたのですから、

苦しいのが当たり前の状態で今日まで生き抜きました。

だから、生きづらさの原因に辿り着く事は易しい事ではありません。

原因がぼんやりとでも、見える様になったのは、その人の苦しみが如何に大きかったのか、を物語ります。

生きづらさを手放したい、と願うならば先ず、知ること、が求められます。

ぼんやりとでも原因が見えている、ということは、知りつつある、ということです。

原因を知ったならば次に、本気になる、ことが必要です。

手放したいと願う事と、生きづらさを手放す事に、本気になる、のは違います。

生きづらさに気がついた人の多くは、生きづらさを手放したい、と願います。

その思いに嘘はありません。

しかし、生きづらさを手放すならば、決断すること、が絶対に必要であり、

決断するには、本気になる事、が最低条件なのです。


生きづらい人は、自分である事を禁じられて生きた人です。

親が禁じました。

親が親自身の抱える苦しみから目を逸らす為に、その人を親の人生に取り込み、

親が主役の人生における、脇役として、その人を位置づけました。

だから、その人がその人として、その人の人生を生きる事を禁じたのです。

その人が、その人としての意思や意志を持っては、親の人生に取り込む事が出来ません。

だから禁じました。

意思とは、どう思うかであり、意志はどうしたいのか、です。

意思と意志を取り上げられたその人は、自分の感情を掴む事、そして自分で決める事が苦手です。

意思と意志を取り上げられたその人は、腹を括れません。

決断出来ません。

生きづらさに気がついた時、生きづらさを手放したい、と願いはします。

あまりにも苦しいから、苦しみから逃れたい、と願います。

しかし、意思と意志を取り上げられたまま生きたその人は、決断すること、が出来ません。

意思を取り上げられたその人が、願う、だけでも尊い事です。
生きづらさを手放したいと願っている自分の意思に気がついたなら次は、
生きづらさを手放し、軽やかに生きる、という意志を持つ段階です。

軽やかな心持ちで人生を歩む、と、決める、のです。

意思を取り上げられたのに、手放したい、と思い、願ったのですから、
意志を持って、決める、事だって出来ます。

その為に、本気になる、のです。


私は、生きづらさを抱えるに至った原因から離れる事が出来そうですか?と訊ねます。

勿論、不可能な場合は多いです。

原因から物理的に離れるのは、経済的にも、心理的にも、負荷は小さくありませんし、個々人に事情があり、障壁は低くない事は理解した上で、尚、

可能ですか?と投げかけます。


その質問を投げかける時は、その苦しむ人が、まだ本気になれていない時、です。

本当に苦しんでいる、と思います。
嘘をついている、とは思っていません。

生きづらさを手放したい、と願ったのですから、その苦しみに嘘はありません。

しかし、お話しを伺う中で、どこか他人事の様な、自分で自分を突き離している様な、

苦しさを訴えながら、訴えている苦しさがピンと来ていない様に感じられる事が多々あります。

私の問いかけに迷う事無く、無理です、と即答される方は少なくありません。

生きづらさを手放したい、と願いながらも、苦しくてもこれまで慣れ親しんだ世界から出る事が怖いのは無理からぬ事です。

しかし、手放したい、と願ったならば、その願いを、淡い期待に終わらせては、手放す事は叶いません。

本気になる時、だと思うのです。


実際に、生きづらさの原因から離れる事は、
生きづらさを手放す際の障壁を、劇的に低くします。

自分の人生を歩みたい子供と、子供を自分の人生に組み込みたい親、なのですから、物理的に距離を置く事のメリットは測り知れません。

生きづらさを手放したいと願い、自分と向き合い始めた人が、親子関係は勿論ですが、友人、同僚、親戚、恋人などに、心を引っ掻き回される事は少なからずあります。

その人の人間関係の全てが、とは言いませんが、生きづらさを手放したいと思う以前に受け入れてくれていると感じていた人間関係は、

親に取り込まれ、親の人生の脇役を務めるその人、を受け容れていたのです。

意思薄弱で、意志脆弱なその人を受け容れていたのですから、

生きづらさを手放し、自分として自分の人生を歩もうとする時、その人間関係が、押し戻す向かい風になってしまう事は、とても多いと感じています。


生きづらさの原因から距離を取る事は、難しい事を承知しながら、

距離を取れますか?と問いかける訳は、

実際に距離を取る事が出来れば一番好ましいのですが、それがすぐには叶わなくても、

それ程、慣れ親しんだ環境は、その人の心にとって危険な場所である事を解って欲しいから、

それを解かる事で、本気になって欲しいから、です。

生きづらさを手放したい、と願うことは、

意思と意志の境い目です。

本気になって、

軽やかに生きる、

と決める時、だと思うのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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