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優しくなれない自分は駄目なヤツだ

抱え込んでいる生きづらさに気がついて、

生きづらさを手放す決意を固めて、

自分と向き合い始めると、

様々な事が腑に落ち始め、

やがて大きな気づきを迎えます。


感覚的なお話しですが、様々な事が腑に落ちる感覚は、

炭酸水の小さな泡が、コップの中でプツプツパチパチと弾ける様な感じです。

やがて迎える大きな気づきは、雷に打たれた様な衝撃に近いかも知れません。

個人差はあると思いますが、プツプツプツプツ、パチパチ、ドーン、といった感覚だと思います。


そのプツプツ、パチパチの段階で、生きづらさを手放す多くの人が、腑に落ち、実感するであろう心境の変化があります。

その瞬間、自分が今まで、どれ程自分を責め苛んで生きて来たのか、が解ります。

そして、自分を責める事は止めよう、と思います。

それでも、ついついこれまでのクセで、自分を責めている事に気がつく事はあります。

しかし、小さな気づきを得た人は、自分を責めている事に気がついた時、責めるのを止める事が出来る様になります。

たとえば、誰かにつらく当たってしまった時に、これまでであれば、
「優しくなれない自分は駄目なヤツだ。」
と自分を責めていたものが、
つらく当たっている事実は認めながらも、
「色々あって今があるから、優しくなれないのは無理も無いよね。」
と思える様になります。

この変化は、自分を責めるだけ責めて生きて来た人にとっては、大きな意味を持ちます。
転換点とも言える出来事です。

無理も無い、と思え、
人は自分を大切に思う分しか、他人を大切に出来ない、という事が、
言語では無く感覚として、腹の底から解ります。

感覚として解かるという事は、自分を尊重し、他人を尊重する事の入り口に立っている、と言えます。


育った環境には、尊重、が無かったのです。

親も尊重される事無く育った為、幼いその人を尊重する事が無い人でした。

子供を一人の人として尊重する事が出来ない親は、その人を自分のもの、と認識し、所有しました。

子供は親を慕う様に出来ています。
無力であるが故に、親を慕い尽くす事で生きる仕組みになっています。

しかし、尊重を知らない親は、自分を慕って止まない我が子の姿を、絶対服従の存在、と見誤ってしまいます。

自分がお腹を痛めて産んで、あげた、から、
自分が苦労して育てて、あげて、いるから、
自分のもの、という認識です。

好きに、便利に、利用するのは当然の権利だと、揺らぐ事無く思っています。

幼い子供と、その親の力関係は圧倒的に親が優位な立ち位置に在ります。

その圧倒的優位な親の認識が、尊重では無く、所有、であるなら、

無力な幼い子供はひとたまりも無く、親に、所有、されます。

親子関係に尊重は無くその人は、尊重する事も、尊重される事も知らず育ちます。

尊重、という言葉は勿論知っていて、求められれば上手に言葉の意味を説明出来ても、
それは思考による言葉の理解の域を出ず、
感情に紐付く事が無い、のです。

人間関係のひな型は、幼少期の親子関係によって作られます。

その人の人間関係には、自分を尊重し、他者を尊重する、という事が欠けています。


そんな尊重する事、される事に触れた事すら無いその人が、

自分と向き合う中で、プツプツパチパチと小さな気づきを重ねて、

尊重する事に行き着くことは、大きな転換点と言えます。


生きづらさを手放す道程に於いて、

自分が目指す方向を向いているのか、

自分は何処を歩いているのか、

不安になる事もあります。

けれども、

「優しくなれない自分は駄目なヤツだ。」が、

「無理も無いよね。」と思えたなら、

それは自分を尊重し、自分を大切にする事が出来始めた証拠です。

自分を大切にする分だけしか、他人に優しくなれない事が腹の底から解ったなら、それは、自分と他人を尊重する入り口です。

目指す方向を向いていますし、

もう随分歩く事が出来ています。

プツプツがパチパチになり、

ドーンと大きな気づきを迎えるのも、

そう遠い先ではありません。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム



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