感じ尽くすとき、目に映る景色は彩度を増す
生きる中で人は、様々な気づきを得ます。
生きづらさを抱えて生きて、その生きづらさを手放した経験を持つ人であれば、
一つひとつの気づきが、自分の血肉となる感覚をきっと強く感じる事と思います。
生きづらさとは、見方によって、切り口によって、様々な表現が出来ますが、
心に、確固たる【自分】が育っておらず、人生がまるで他人事の様に思える状態、と表す事が出来ます。
確固たる【自分】は、感情を感じ取る、主体、であり、
いわば人生の主役です。
その主役が不在であれば、感情を感じ取る事がままならず、人生が自分のものでは無い様に思えるのは必然です。
そんな生きづらさを手放したならば、感情が動き始め、心の真ん中に主役の【自分】が座り、
目に映る全てのものは、彩度を増します。
世の中はこんなにも鮮やかだったのか、と驚きます。
これまで、感情を感じ取る主体である【自分】が不在だったのですから、見るもの、触れるもの、関わる人、降りかかる出来事、
その全てが、薄い膜を1枚挟み込んだ様なダイレクト感の無い感じ方になっていました。
本人は生まれてからずっと、そんな感覚で生きて来て、
そんな感覚しか知らないので、自分が薄い膜を挟んで世の中と触れ合っているとは思いません。
思いませんが、気分が晴れるという事がありません。
ずっと薄ぼんやりとした苦しさがあるのです。
常に薄ぼんやりとした苦しさを引きずって生きるダイレクト感に欠ける人生は、どうしても他人事にしか思えません。
人生の主役である【自分】は不在なのです。
確固たる【自分】がある人は、湧き上がる感情を抑圧する事を嫌います。
自分の感情を抑え込んで、他者の感情ばかりを優先する事には、強いストレスを感じます。
しかし、生まれてからずっと自分の感情を抑え込んで、親の顔色を見て、親の感情を優先して生きて来た生きづらい人は、
自分が自分の感情を抑え込んでいる自覚がありません。
自覚は無くても、感情の動物である人間が、湧き上がる感情を抑え込むのですから、強いストレスはあります。
けれども生きづらい人は、そのストレスすら感じ取る事が出来ないのです。
それが、薄ぼんやりとした苦しさの正体です。
生きづらい人は常に、強いストレスのかかった状態、で生きています。
生きづらい人は、薄ぼんやりとした苦しさを表に出して生きるばかりではありません。
それが周囲の人から、生きづらい人の心の内が判り難い原因なのですが、
幼い頃に、どんなに悲しくても親の顔色を見て、親が明るく笑う事を求めている、と察知するや、とびきりの笑顔を作って見せた様に、
周囲の空気を読んで、自分の感情を決める様になります。
ちっとも面白くなくても、周囲の人が笑っていたら、笑います。
その時、幼い日に悲しい気持ちを親に悟られない為、とびきりの笑顔を振りまいた様に、
ちっとも面白くないと感じている本心を隠す為に、こと更に手を叩いて腹を抱えて笑ってみせたりします。
その場に居る誰よりも大きなリアクションを取ったりするのです。
生きづらい人の心の内は、なかなか他者には分からない事が多いのです。
幼い頃、親から本心を咎められました。
泣きたい気持ちを否定されました。
だから、本心を悟られてはならない、と思い込みました。
本心を抑え込んだ上に、悟られない様に蓋をして、心の奥に隠しました。
そうして生きるうちに、他者には悟られず、自分すらも本心が見えなくなりました。
本人にすら分からない感情を、他者が分かろう筈がありません。
他者には理解が得られず、自分すらも自覚が薄い、生きづらさ、ですが、
気がつかないままに、掛かり続けているストレスはとても大きいのです。
どの様な人生を歩むのかは、その人の自由ですが、
生きづらさを抱えて長く歩き、
生きづらさに気がついて、
生きづらさを手放した人で、
その人生の大転換を、
後悔する人を私は知りません。
生きづらさを手放す時、
自分と向き合い、
心の傷と対峙します。
対峙すれば痛みを感じます。
しかし痛んで尚、
後悔する人を私は知りません。
湧き上がる感情の全てを感じ尽くし、
歩む人生の確かさは、
何にも代え難い自分の人生です。
見る景色の色合いは、
彩度を増すのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム