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イジメる人は決して自分と向き合わない

イジメる人は、自分と向き合う事がありません。

何故なら、イジメる人は自分と向き合いたくないから、誰かを標的にしてイジメるからです。

イジメる人は、イジメる人自身が、心に深い傷を負っています。

傷は少しの外的な刺激で痛みを放ちます。

心に傷が無い人ならば気にも留めない様な些細な出来事に、
深い傷を負っているイジメる人は、激しい痛みを感じます。

イジメる人は、ずっと痛みを堪えて生きて来て、もう耐える事が出来なくなったから、

自分の痛みを背負ってくれる人を見つけて、その人を標的にしてイジメます。

傷の痛みにもう耐えられない、という事は、痛みを放つ傷口にもう触れたくない、という事です。

だから誰かをイジメます。

だから自分と向き合わないのです。


標的になるのは、イジメても反抗しない、自分よりも弱い人です。

体力的に自分よりも弱い人だったり、立場的に自分よりも弱い人だったり、
性格的に弱い、見方を変えれば、優しい人とも言えるかも知れない人を標的にします。

イジメる人の心の傷は、無価値な思い込みであり、傷口が放つ痛みは無価値感です。

無価値な思い込みは、大半の場合、その人の親によって思い込まされたものです。
つまり、その人の心を深く傷つけたのは、その人の親です。

深く傷つけられたら、傷をつけた相手に怒りを覚えるのが自然な事ですが、

親から傷つけられた子供は、親に怒りを向ける事が出来ません。

親子という関係性に於いては、親は圧倒的に強く、子供は徹底的に弱い存在です。

だから子供は親に怒りを向ける事が出来ず、怒りを心の奥にしまい込み、親に笑顔を振り撒きます。

感情の動物である人間から、感情を取り上げるのですから、子供は深く傷つきます。

そんな親子関係に晒され続け、その子は信念にも似た、自分は無価値だ、という固い思い込みを心に貼り付けてしまいます。

その思い込みが、心の傷です。


これまで散々感じて来た痛みを、もう感じたく無い、という一心で、標的を見つけ、イジメます。

その舞台が学校や職場ならイジメですし、家庭内なら虐待です。

イジメも虐待も構造は同じ、ということです。


親子の間で起きるイジメが虐待ですが、

親子という閉鎖的且つ永続的な関係性の中で起きるだけに、被虐待の立場に置かれた子供は殆どの場合が、生きづらさを抱えて生きる事になります。

被虐待児は生まれてからずっと虐待される環境しか知らないのですから、
自分が虐待されたという事にも、自分が生きづらさを抱えている、ということにも、気がつくのが非常に難しいのですが、

それでも気がつく人は居ます。

気がついて、生きづらさを手放そうと決意する人は居ます。

決意して、自分と向き合い始めて、今まで見えていなかった様々な事が見えて来た時、

親にも、自分が見える様になった事を見せてあげたい、と思う様になります。

自分が今、生きづらさを手放そうとしている様に、親も生きづらさを手放せるのではないか、と考えます。

そうなったなら、虐待する親、される子供、では無い、温かな親子関係になるのではないか、と考えます。

しかし、生きづらさを手放した人の親が、劇的に変わった、という例は、

無い、とは言いませんが、極めて稀です。

何故なら、虐待する親は、自分の心と向き合いたく無くて、
心の傷の痛みから逃れたい一心で、子供を虐待するから、です。

生きづらさを手放した人は、残らず、親の課題と自分の課題を分けて捉える様になります。

だから、親自身が自発的に自分と向き合わない限り、生きづらさを手放す事は出来ないし、

虐待された子供に理解を持つ事も、あたたかい親子関係になる事も難しいという事に気がつきます。

逆に言うなら、親の生きづらさをなんとかしたいとか、あたたかい親子関係になりたいとか、

それが難しいなら、虐待された自分の苦しみを少しでも分かって欲しいとか、虐待した事を詫びて欲しいとか、

親を変えたい、と思ううちは、未だ生きづらさを手放せていない、ということになります。


イジメる人も、虐待する人も、

自分と向き合いたくない、

痛みたくない、という一心で、

イジメますし、虐待するのです。


生きづらさを手放すには、決断、が必要です。

決断は、自分発でなければ出来ません。

他者に促されて、生きづらさを手放すことは出来ないのです。


生きづらさを手放そうとする時、

先ずは親は親、自分は自分と、切り分けて捉える事が必要です。

その感覚に至るには、

自分の内面をしっかりと見つめる事が求められます。

親と自分を切り分けられないから、生きづらいのですから、

あっさりと出来る訳では無いかも知れませんが、

ここが生きづらさを手放す最後の難所である様に思います。

自分と向き合うことが始まりで、

自分と向き合うことが、

すべて、だと思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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