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親のプログラ厶に沿って自動運転で生きる人

子供を生きづらい人にさせてしまう親は、子供の心の自由を認めません。

子供の行動を規制するのでは無く、子供の心、感情の発露を規制します。

子供の心にズカズカと入り込んでは、こんな感情を持ってはダメだ、この感情を持ちなさい、と子供の為を思っている風に装いながら、

親の感情を押し付けます。

泣きたいなんてダメな感情、笑いなさい、
という事です。

親に怒るなんてとんでも無い事、親の言う事を黙ってききなさい、
という事です。

本来、感情は刻々と自然に湧き上がるもので、其処に良し悪しなど無いのです。

何故なら、人はポジティブな感情の分だけのネガティブな感情を持っています。

どんな善人にも、ズルい心、はありますし、
どんな人格者でも、些細な事で気分を害したりもします。

光りが眩ければ、深い影をつくる、ということです。

ところが、子供を生きづらい人にしてしまう親は、

親が好む感情を持つ事を、子供の心に入り込んで強要するのです。

入り込んで親の都合のいい様に子供をコントロールするのですから、究極の洗脳と言ってよいと思います。

そうやって、育った子供は、心に、確かな【自分】という意識、が育ちません。

本来【自分】が座るべき心の真ん中には、親が好きな時に入り込み、居座って、コントロールするのです。

そんな子供時代を過ごした人の心の中の【自分】は、固く小さく縮こまっています。

【自分】は、湧き出した感情をすくい上げ感じ尽くす、主体、です。

人生の、主役、と言えます。


その、主役が不在なのですから、その人には、その人なりの基準がありません。

たとえば、これは好き、これは嫌い、といった基準が、親の押し付けた基準だったりします。

その人は、自分なりの基準に沿って生きている、と思っていますが、

その人に【自分】は育っておらず、代わりに親が入り込んで、押し付けた基準に沿って、生きています。

その人は、自分で選んで、自分で決めて、自分の人生を生きている、と思っています。

けれども、心はいつだってモヤモヤしています。
なんだか全てが腑に落ちない感じがして、不本意な気分が拭えません。

言うまでもありませんが、それは心をコントロールされているから、です。

社会に出て、ビシッとスーツに身を包んで、家庭も持って、
経済的にも、物理的にも、自立した大人に見えたとしても、
心理的には、親にコントロールされたままです。

親からプログラミングされた通りに、自動運転で人生を生きています。

なんだか腑に落ちない、不本意な感覚は、自分で選んで、自分で決めていない人生だからです。

その人は、ふとした時に、親はどう思うだろう、という事が頭を過る筈です。

結婚する時、就職、転職、マイホームの購入、といった大きな事から、

人付き合いの些細な事まで、チラッと親の意に背いていないか、という感覚に執らわれる瞬間があります。

それは、一瞬の事なので、本人は気にも留めないかも知れませんが、

心の奥底の執らわれは、チラッとした一瞬の逡巡に現れると思っています。


人は、自分の感覚に沿って選んだ事に失敗した時、仕方が無い、と思う事が出来ます。

あの時こうしていたなら、あの時こうすれば良かった、と後悔に沈むのは、概ね自分の感覚を信じず、諸条件や他者の意見によって、選んだ事が失敗に終わった時です。

勿論、データやエビデンスそして経験豊富な他者のアドバイスなどを揃えて熟考する事は大切です。

熟考するという事は、熟考を加えた時点でデータ、エビデンス、アドバイスなどは自分に取り込まれ、自分のものになります。

拭いきれない程の後悔に沈む場合は、得た情報やもらったアドバイスを熟考する事無く、
言わば、鵜呑みにして失敗した時だと思うのです。

鵜呑みにした時点で、自分の感覚を取るに足りないものとして、自分を信じる事を止めてしまった、という事であり、

拭いきれない程の後悔に苛まれるのは失敗したという事自体では無く、自分を信じられなかった事に依るところが大きい様に思います。

外からの情報やアドバイスに熟考を加える事は、情報、アドバイスに自分の尺度の目盛りを当てて、実測してみる事だと思います。

そうする事で、情報、アドバイスと自分の感覚が擦り合わされて、下した選択は、自分の選択になり、

仮に失敗しても、仕方が無い、と思える決定になる、と思うのです。


生きづらい人が育った親子関係、環境には、選択も熟考もありません。

押し付けられた親の感情、要求、判断を無条件に受け容れざるを得ないのです。

だから、子供には、いつも腑に落ちない感覚があります。

自分で選んでもいなければ、熟考する事も無いからです。

事の成否に関わらず、その子は、すべてが腑に落ちないのです。

押し付けられたままに生きる時、自分なりの判断や尺度は必要無くなります。

測る機会が無いのですから、その子には自分なりの尺度はありません。


生まれた時からの親子関係、ずっと続いた環境です。

その人はその環境しか知らないのですから、自分が親のプログラ厶に沿って、自動運転で生きている自覚はありません。

しかし、すべての事に腑に落ちない感覚があり、
ふとした時に訪れる、言い様のない一瞬の逡巡に覚えがあるならば、

自分で選んでいない可能性が高い様に思います。

立派な大人に見えても、心理的には親に呑み込まれ、親の人生に取り込まれ、
親が主役の舞台でエキストラとして演じ続けているのかも知れません。

執らわれは、ふとした時の一瞬の逡巡に現れます。

一瞬ですが、些細な事ではありません。

心の、自分として生きたい、という叫びだと思うのです。

見逃さないで欲しく思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム







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