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この社会は「マルトリートメント」ばかりだ。⑥

完璧を常に求めるのって…


⑤の最後で プロ意識に関して書きましたが、

完璧を求める方法によっては、心身を傷つけるだけの「マルトリートメント」になることにも気づきました。


どんな職業でも、プロを名乗る人やプロを目指している人に対しては、

"完璧と共感性と強さ"を常に見せてくれるものとして扱い、

心身の弱さや個性が現れた途端に
その人格をけなす傾向が強い
ように見受けます。


生まれつき 苦手でなおらない面が多い僕は、
競合相手にいとも簡単に弱みにつけこまれて 負ける場面が出てきやすいことを自覚しています。


突然求められたテーマに対しても 完璧なふるまいをしなければ、
1位になれない他、生活の助けになるような賞金やスポンサーや仕事がもらえない という展開に適応できないこともあり得ます。


プロとしても 人間としても認められない結果に、
無力感と絶望感に陥る
だけでなく、自力で立ち直るのが難しいほどのダメージを背負い続けてしまいかねません。



こういった流れを社会の場で学んだ僕は、
1位を目指す コンテスト形式の企画が好きになれません。


プロとして見られないなら 次の仕事につながらないしくみのもと、

競争を勝ち抜くためとして 無理しないとできないことでさえ
「できなきゃいけない」
と強要されている場面を見ると、

心が締め付けられるような気分になって
続きを見るのが嫌な気持ちになってしまうんです。


それに、"イス取りゲーム"や"戦場"とも称される競争では、
相手(の良さや存在意義)を殺す行動も可能にしてしまいます。

"マウントを取る"言動や 相手をひたすら責め立てるなどして
対立構造がエスカレートしていく展開は、
どんな世界でも好きにはなれません。



スポーツのトーナメント戦に関しては、
それぞれの良いところを出し合う展開なら 肩の力を抜いて楽しく見られるんですが、

「失点を少なくしたいから」「勝つ確率を上げたいから」と相手の嫌なところをひたすら突こうとする姿勢は嫌いです。

無表情になったり嫌な顔になる相手を見て狂喜乱舞する場面を見ると むしずが走るんです。



やると決めたことに関しては "必ず"成功しなければならない とされるプロの世界。

「誰かのために」と 無理してまで頑張ってしまうのは仕方ないのかもしれませんが、

どんな結果になるにしろ、本人の性格や本音との距離が離れているほど
見えない傷が作られやすい立場でもあるんです。


つらい練習を毎日繰り返しても、
肌のケアを徹底しても、
酒やサプリメントに頼っても、
なかったことにはならない傷です。


助言や治療を受けたとしても、
本性や本音を自分で理解していなければ、
その傷を正しく癒すことはできません。



相手が嫌がる言動は 全て「マルトリートメント」


とにかく、相手が嫌がる言動は何であれ、
どんな理由だろうと「マルトリートメント」になります。


それから、直接被害を受けた人だけでなく、
その言動を偶然見聞きしていた人たちにも悪影響が及ぶのが
「マルトリートメント」の厄介な特徴です。


間違った考え方であることに気づかず、
「この世の常識だ」と言わんばかりに行動している内は、
無駄な対立を生み出しかねません。


一度生まれた対立構造は、
第三者による 適切な介入がない限り 維持され続ける場合も多く、
正常な人間関係になるまでに 相当な時間と手間がかかってしまいます。


対立を生む言動も、いつになってもその対立を解こうとしない態度も、
恥ずかしいことだと認めて反省し 謝るべき場面であっても、
改心した行動に移せない人ばかり見てきました。



「マルトリートメント」ばかりのバラエティー番組


バラエティー番組なんかは、今まで説明してきたマルトリートメントが集約されている場合が多いような気がしてなりません。



・他人と違うところを見つけ次第 少数派を孤立させる言動で笑わせる。

・笑いをとって 芸人として生活していくためには、偏見が混じった暴力も暴言も良しとする空気。

・演者の話の途中で切り上げてしまう流れ。

・収録の前に役割分担され、それにふさわしい動作を強要される。(演者の本心を無視。)

・無理やり スキンシップを強要する空気。

・笑わせるためなら 話した人の意図を軽視or無視した編集をし、本意ではない演者の印象を独り歩きさせてしまった事実の数々。

・性的マイノリティーの人を「オカマ」と言いくるめて、変装しないと出れない印象を持たせている番組が多い。(そうしたくない人の気持ちを無視している。)

・怒ったり泣いたりしているのを見て笑う姿。

・笑いを求めてそうならなかった時に、制作側が演者に直接的or間接的なパワハラをする。
(「こんなことができないなら居る意味がない」「死ね」などと暴言を吐く、編集する際に活躍しなかった人を 初めから居なかったことにする など)



このように、
人の尊厳を傷つけたり、恣意的に切り貼りした情報ばかり提供するバラエティー番組が年々嫌いになっていきました。
YouTubeや配信限定のものでも、生放送だったとしても、どんな人が出ていても、そういった雰囲気の番組は嫌いです。


笑い声のタイミングで心の底から笑えない代わりに、
はらわたが煮えくり返るような怒りの感情が全身を伝って湧いてくるんです。


赤の他人が無抵抗で傷つけられている場面ばかり見て 笑い飛ばしてストレス発散になる人もいるらしいですが、

僕はその気持ちが分からないし、分かりたくありません。


実生活でこういった場面に遭遇し 嫌な気持ちにしかならなかったからだと思います。


一言では収まりきらない話題なんかは特に、

一通り聞いてからでないと生まれない感情があるはずです。

それを信用しない発信のしかたは、
視聴者を誤解させる結果にしかなりません。



まとめ


家庭にも、学校にも、職場にも、大人の憩いの場でも、たくさん
マルトリートメントの言動がある
と分かっていただけたと思います。


子どもの頃から大人になってもマルトリートメントの経験を積み重ねて、心身が健全に成長していない人もいる想像ができたのではないでしょうか。


こういった背景を知らずに子育てを始めてしまうと、
子どもの世代に マルトリートメントの言動とその悪影響を与えてしまい、
マルトリートメントの負の連鎖が受け継がれてしまうと 友田先生は指摘しています。

    子どもに対するマルトリートメントと「愛着障害」には深いかかわりがあります。
    近年では、子ども時代に「愛着(attachment)」をいかに築くかが、その後の人生に――特に精神的な面において――大きな影響を与えることも明らかになってきています。
(p.158)
    何か危険なことが起きたとき、不安を感じたときに、親がそばにいない、あるいはそばにいても安心感を与えてくれないと、子どもはいつまでも活動できるエリアを広げていくことができません。探索する機会は減っていき、その結果、自立の準備がなかなか整わなくなります。
    子どもが社会的、精神的に健全な成長を遂げるためには、安定・安心を保障してくれる確かな存在――親や養育者――と、親密な関係を維持し、安定した愛着を築かなければならないのです。
(pp.162~163)
    愛着障害を考えるときに忘れてはならないのは、こうした子どもの親もまたこの障害で苦しんでいる場合が多いということです。
    マルトリートメントを行うまでには至らないものの、子どもとどう接してよいのかわからず、愛のこもった言葉のやりとりやスキンシップが極端に少ない――そんな親子の関係も近ごろ増えてきています。
(p.180)


しかしながら、犯罪にはあたらないマルトリートメントであれば、
同じ失敗を繰り返さなければ挽回はできる 
とも書かれています。


「もしかしたら あの言動がマルトリートメントだったかもしれない」と思い当たった方。

その行為をきれいに消すことはできませんが、
加害者と被害者との人間関係は、今からでも修復することができます。


どのような行為が不適切な言動にあたるのか、相手の反応から知る。
どうして嫌な思いをしたのかを理解すれば、謝ることもできます。
そして、人を傷つける言動を繰り返さない姿勢を見せ続ける。

これが大事なんです。


一人一人がこういった正しい意識のもと動き続けられるならば、
社会にはびこるマルトリートメントを少しずつ減らすことはできる。

その反面、謝らなくても生活できるじゃないか、という意識は、
加害者・被害者の心身だけでなく 人生設計が崩れる要因にもなってしまう。

友田先生は著書で、実体験と科学的な研究結果を照らし合わせて説明しています。



人を傷つけないコミュニケーションに、テンポやノリは関係ありません。

相手を気遣った表現ができていれば それで良いんです。

皆さんがその意識でコミュニケーションし続けて初めて、
比較的 心地よい居場所ができるのではないかと思います。


科学的に証明されているのならば、その考え方を素直に信じて、
これからに活かして生きたいです。

友田先生、ありがとうございます。

オーノ



引用文献

友田明美「子どもの脳を傷つける親たち」 NHK出版、2017年


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