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年を重ねる醍醐味〜パーソナルクロニクル〜

にゃー!いつの間にかおトヨが担当する締切前日になってしまったにゃ!何を書こうにゃ。なににゃ。なにゃ?今回のサイクルはテーマなしなので余計に迷うにゃ。うーん、先週、時間について書いた気がするにゃけど、全くタイムマネジメントできてないにゃ。(遠い目)雨を眺めて気を落ち着けるにゃ。シーン…. 
(沈黙の5分後)
そうにゃ、先週土曜日に、おトヨが関わったとある施設のお披露目会でのできごとが「ネタ」になるにゃ!

前説長くてごめんにゃ。ということで、今回のタイトル、深淵なテーマにゃ。答えは一つでないにゃ。15年以上前に手に取ったプラトンの「国家」の冒頭では、このような会話があったにゃ:

”ある男は、(三大悲劇詩人の)ソポクレスにこう問うた。
「どうですか、愛欲の楽しみのほうは。あなたはまだ女と交わることができますか?」
ソポクレスはこう答えた。
「よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなものだ」
私はそのとき、このソポクレスの答を名言だと思ったが、いまでもそう思う気持にかわりはない。まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからだ。”

「国家」プラトン 藤沢令夫訳(岩波文庫)

こうした、年を重ねることによって訪れるであろう変化については、自身の実感として湧かないとリアルに想像できないこともあると思うにゃ。なので、年を重ねることは「絶対」であるという前提を意識して、こういう醍醐味が訪れるかもよ、くらいなライトでチャーミングな認識をもってもらえるだけで、おトヨは満足にゃ。一方で、恋人にずっと「2ちゃいです」と言い続けるプレーや、1歳2歳と年を数えることが軽微になるようなデーモン閣下(紀元前98038年11月10日生まれ)のようなスタイルの方にも依然として関係するお話にゃす。

おトヨが戦国の世を生き抜いて、これまで両手両足の指では数えきれない活動に関わっておるにゃけど、この数年携わってきた、とあるエリアのとある施設のオープニングに昨日行ってきたにゃ。その際に、改めて「縁」というものに触れたにゃ。とても簡単な、まだ初期の、これからどういう展開が待つかもわからない、そんなフェーズの「縁」というのは、読者のみなさんにもよくあることだと思うにゃ。土曜日も、2名、25年来と20年来の知人が想定外に訪れて、本人たちの活動と自身の活動に接点が生まれたということにときめきメモリアルだったにゃ。無論、フィジカルに会うのはともに10-20年以上ぶりになるにゃ。ただ、これまでも同様の「縁」はあって、出会いとか縁っておもしろいにゃー、不思議だにゃー、不思議だにゃーって思ってたのだけど、

これって、ただ年とってるからじゃね?

って気づいてしまったにゃ。
出会いや縁には本投稿のサムネイルにもなっている、某オンラインマッチングサービスのように、縁もゆかりもない出会いを創出する価値が生み出されている昨今でもあるにゃ。おトヨが海外にいた20年前ですら、45歳くらいのハイテンションブラジリアン女子がネットで出会った(おそらく)ハイテンションアメリカン男子と結婚してたにゃ。ちなみに、おトヨもせっかくの現代生活だからこうしたサービスを試してみたにゃけど、縁もゆかりもない出会いには縁がなかったにゃ。ガーン。たしか、月2,000円くらいのサブスクリプションを3ヶ月ほど、計2サービスで試して、結局フィジカルで会った人はゼロにゃ。計算すれば、2,000 x 3 x 2 = 12,000円でゼロコンバージョンにゃ。証券会社がひとつの口座獲得にかけている予算は、1-2万円ほどという認識をしているので、証券会社の営業にはなれないにゃ(以下、「にゃ」を省略するにゃ)。

さて、本題に戻すと、こうした「縁」は、①パーソナリティの変化と、②ゆる〜い確率論と、③インフラの出現によって実現されているということなのだと感じています。そしてそれは、年を重ねれば重ねるほど発生するというわけです。端的に解釈を加えると、

① パーソナリティの変化
人それぞれどのような年齢でどのようなフェーズへと突入するかは分かりませんし、年を重ねるごとに変わっていくこともあろうと思います。ただ、例えば、その人がどういう仕事をしていて、そこにはどういう思いがあって、さらにその背景にはどういった価値観があってということが、若かりし時はまだまだ見えてこないこともあるでしょうし、当時は共感できなかったけど、見る側または見られる側が変化したことで、新しくアプローチしてみようということになるのです。上述の自身のような長期的なスパンで出会いが創出されるということは、振れ幅や変化の大きい生き方をしている方に起きやすいことだと思います。

②ゆる〜い確率論
これはわかりやすく、生活、家族、趣味を通じて関わるコミュニティや転職や多動性に基づく職場や仕事数によって、幅広いタイプの人間と出会っていくこと、そして、その出会いが累積していくことが必然的にこうした縁を生み出す確率を増大させるということになります。

③インフラの出現
これは無論、SNSです。SNSにも多様なタイプがありますが、互いにコミュニケーションができる限りにおいては同様です。深い関係性であろうが浅い関係性(←ここが重要)であろうが、ミュートにしない限りは少なくとも表面的な発信を確認することができ、コンタクトができる状態が保存されていることが、上記の①と②の大前提となっていると考えられます。例えば、おトヨ(というユーザー名ではありませんが)の場合は、Facebook、Instagram、Twitterを活用しており、全く違う側面を見ることになるでしょう。フィジカルで会うことは依然として大切だと個人的には考えていますが、その手前で、質の異なる複数のオンライン発信(単一でももちろん可)が、これまでの関係性から次の関係性へと進展するための「縁」を創出するきっかけを作るには十分であろうとは思っています。

年を重ねることの醍醐味を少しでもイメージしていただけたらうれしいです。こうした観点からも、方向性が強かったりコンセプト・趣旨が明確すぎるようなディレクショナルな場だけではなく、なにも決まってないけど話したいくらい、なんのコミュニティでもないコミュニティの意義もあると思っています。おトヨもそういった会をのぶのぶやヤスと時たま開催していますが、そのお話はまた良い機会に。本日はここまでにしておきます。


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