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『はてしない物語』考察③ 人を虚無感から救う「ファンタジー」の役割

前回の記事から、ずいぶんと時間が空いてしまいました。
エンデが結論を急がず自身の内側が熟すのを待ちモモを完成させるのに6年かけたのと同じく、しばらくあわただしくて私を取り巻く外的要因も、私自身の内的意識も丁寧に記事を書けるようになる時間が必要でした。

前回の記事では 幼ごころの君という存在が善悪の物差しではなく、自然界の法則に乗っ取った「筋の通った法則」であることに関して考察しました。

今回はミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の核ともいえる「ファンタジー」が人々の虚無感を救う鍵としてどのように描かれているかと書いていきたいと思います。

『はてしない物語』での「ファンタジー」、即ち「想像力」や「空想力」は作中のファンタージエン国を襲う「虚無」から救う鍵としての役割を担っています。そして同時にこの「ファンタジー」という名の鍵は、その無利益的、非論理的性質から、現代を生きる人々が侵されている言いようのない「虚無感」をも救うことが出来ることをファンタージエン国から現実へ戻ってきた作中のバスチアンを通じて伝えています。

作中の小説『はてしない物語』における鍵の機能は明快です。ファンタージエンという架空の国、またその国のいきものが存在するためには、その存在を信じる人間のファンタジーに対する感性が必要と明記されているからです。ファンタージエンの存在を信じる人間がいなければ、ファンタージエンは人々の頭の中から姿を消してしまいます。したがって、人間の想像力、空想力は、それらの欠如によってファンタジー空間に起こる無空間「虚無」を救う鍵になることは容易に説明可能です。

後者はどうでしょう。バスチアンが本を盗んだ本屋の店主が、ファンタージエンと現実世界を行ったり来たり出来る人間が両方の世界を健やかにすると言ったように、エンデは「ファンタジーと現実世界の友情」が人々の幸福の鍵になると信じてきました。エンデがここまで「ファンタジー」に信頼を寄せている理由は、ファンタジーを創造するに必要不可欠な想像力及び空想力の持つ能動的な性質そのものが「虚無」と相反する性質であるからです。

虚無感を呼ぶのは受動性です。虚無感は生きることに対する意味を奪い、人々を幸福不感症に陥れてしまう。それとは対照的に、自身の頭と心で「何かを一から創造しよう」という空想的欲求や、人々や物事に思いを馳せる「想像」という行為は、自分で「考える」ことを必要とする、非常に能動的な行為です。頭の中で何かを生み出そうと、必死に考える行為は「虚無」と隣同士の「退屈」からは縁がありません。人に優しくしてもらったり、何かをあたえてもらったりしないと幸せを感じられない人とは違って、自身の描いた空想世界の中で内的幸福を創り出せる人は、外的要因の有無によって「虚無感」は感じない、そういうメッセージを『はてしない物語』は感じます。

そしてこの能動的性質以上に、エンデは「ファンタジー」に対して「無意義さ」という価値を見出していたように思えます。エンデは自身の作品を学者や研究者に考察されることを好みませんでした。一つの作品に使われているモチーフ、テーマ、シンボル、言葉の一つ一つを「こういうメッセージが含まれている」と決めつけなくてはいけない分析という行為そのものに無理がある考えていたようです。また、エンデは分析に限らず、論理的な説明や可視的な利益といった「意味付け」が出来ない行動以外、行動意義を見出さない現代の風潮を疑問視していました。

論理的な証明をすることに対する、奇妙な倦怠感が広がり出しています。この世代は心底に次のような感情をもっています。まあ、条件さえ、整えば、本来、何だって論証したり反論できないことはない。でも、そもそも我々は、人間に関し、論理的=因果的な仕方で、自然科学的思考様式に則って知りうるようなことは、もはや一切役に立てないのだ。

ミヒャエル・エンデ「エンデ、人智学を語る」(『ファンタジー神話と現代』)樋口純明編
人智学出版社、1986年、pp.53-54

この発言はエンデが、人智学に関するインタビューを受けていた際に自身の作品をことごとく分析、批判する人々に向けたものです。何かを表現するとき、それを表面上「論理的」に意味づけしなくてはいけないことの不自然さは、「既にある概念に当てはめて説明する」という消極的かつ受動的な性質も含まれているように思えます。

論理的分析に関しては、この記事を書いている私自身も思うことがあります。私は15歳のとき、日本の中学からカナダ教育のインターナショナルスクールに編入しました。そこで英語(現地の高校で指す「国語」)の授業で、本の読み方に非常に苦労しました。ある本を議題として話し合いを行う際、「あなたの意見は主観的だ」と先生に注意をされたのです。

先生の言うことはこうです。
「書かれている内容から、客観的にわかったシンボルやテーマについて、全員が納得できるように論理的に説明しなさい。あなたがこの本を主観的にどう思っているかは聞いていない」、そういわれた時、私は心底びっくりしました。主観的な読書感想文が一般的な日本の小中学校に通っていた私にとって物語を論じることは、その本がどのように好きか、言葉選びがどんなに美しいか、作品を一つの別世界と認識して読んでいました。なのに欧米の学校では物語という一つの作品を文章、段落、挙句には単語単位に切り刻んで消化し、既存の概念に当てはめて「それらしく」論じ、説得力と一貫性ある客観的文章が高い評価につながるのです。

しかしながら実際、「論理的に分析する」という行為は私にとって意外にもとても面白いものでした。一つの作品をじっくりと細かく吟味するという分析は、作品の多面的な側面が見られて興味深く、以前のようにただ読むよりも深く理解出来たような気になったのです。だけれどもこの「論理的証明」の訓練の所為で、少なからず失ったものもありました。

たとえば、物語の中で登場する「草原の中にある一本の林檎の木」という表現を読んで、その様子を頭の中で想像して感性で美しいと思う前に、「作者は林檎という木にどんな意味を持たせたのか」と考えてしまう私がいるのです。林檎の木が何故草原にあるかなんて、理由なんて本当は必要ないのに。木がなぜそこにあるか、作品のキャラクターは何故男の子なのか、全てを論理的に説明しなくてはいけないとしたら、我々一人一人が何故「存在するか」だって説明出来なくてはいけないのでは。
本来、作者にも読者にも言葉の一つ一つを更に他の言葉に言い換えて説明しなくてはいけない義務なんてない筈。物語の創造という能動的営みを通じて、作者も読者も心を豊かにすることが出来れば、人々は虚無感に苛まれることはないのだから。事実、作者が意味付けた林檎を考える今より、草原にたたずみ風に揺れる林檎を頭の中で描き、ただうっとりしていた頃の方が、私は心満たされていたように感じます。想像力と空想力が、心を豊かにすることが現代の我々にとってどのような価値があるのか、エンデは次のように語っています。

こんにち、私たちは、誰もが目で見、手で確かめることのできる、環境破壊のさなかにあります。しかし、私たちは、その環境破壊の作用の下にあって、私たちが今いる、この現在の文明と、さらには歪みをもたらす、この経済形態が、全く別種の結果、つまり、内面世界の破壊をもたらしている、ということを忘れています。そこで私は、この内面世界の破壊に対しても、同様に何らかの対抗策を施すことが、ぜひとも必要であると思うのです。そして、良い詩を書くことは、一本の木を植えることと同じくらい大切であると、私には思えるのです。良い詩が一つ書かれると、別の所で、一本の木が植えられることでしょう。つまり、それは私たちの内部に植えられるのです。また、木が植えられるのは、それが役に立ったり、林檎を実らすからだけではなく、理屈抜きで、木がそこにあってほしいから、それが必要だからなのです。そして良い詩の場合も同様です。問題は、それが役に立つか否かではなく、それが要するに、私たちの内面の営みを豊かにするか否かなのです。その限りで、私は、詩人や、俳優や、音楽家や、画家が、これから先も存続する権利を擁護するのです。

ミヒャエル・エンデ「芸術――意識の形成か、社会の編成か」(『ファンタジー神話と現代』)
樋口純明編、人智学出版社、1986年、p.155

今日、貨幣経済の営みが発達してきたことによって、人々の多くは物質主義と能率主義に陥り、無意識的にお金を生み出せないものは「意味の無いもの」と認識し、利益を生み出さないものに感謝をしたり、悦びを感じたり、ワクワクする、という感情を忘れかけているのではないかと思います。こういった豊かな心を失ってしまうことが、言いようのない「虚無感」や「幸福不感症」に侵されてしまうのですが、そういった温かい豊かな感情は「得をしたい」、「与えてもらいたい」といった受動的、打算的、論理的関係性の下では決して湧き上がりません。

世間で「良いと言われていること」を真面目にやっているのに、何故かわからないけど、空しい、退屈、時々どうして生きているのかと感じる。そういった経験のある人はこの国で少なくないと思います。「くだらない」、「そんなのは何の得にもならない」、「なんだかんだいってお金が一番」と、何かを考えたり、行動する動機を表面的なメリットデメリットで考えることを学校が、社会が私たちに深層的に求めている節があるからだと思います。でもそんな「外的利益」は我々を幸せにしてはくれない。そしてその真実を他人から言われたとしても、大した意味はありません。自分自身が「生きる悦び」とは何か、肌で感じられるような実感と共に「気づか」なくては、このメッセージを本質的に理解したことにはならないからです。

『はてしない物語』は、一見何の価値も意味もなさそうな、ファンタジーに対する関心や能動的欲求が、我々の幸福を育てることを、エンデが自身の筆を使って立証しようとした作品に思えます。

この本を読むことは、「読書」ではなく『脳内の旅』です。ただ文字を追って、想像するのではなく、バスチアンと共に読者がファンタ―ジエンを旅し、肌で経験できるように、エンデが「本気で」描いた世界。

この記事のような学術染みた分析で「納得したような気」になるのではなく、実際に物語を読みファンタージエンを旅してみて、自身の中に「能動性」や「生きる悦び」が芽生えるかどうか、試してみていただけると嬉しいです。


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