長瀬海

ライター・書評家。「週刊金曜日」書評委員。 「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。…

長瀬海

ライター・書評家。「週刊金曜日」書評委員。 「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。翻訳にマイケル・エメリック「日本文学の発見」。共著に『世界のなかの〈ポスト3.11〉』(柄谷行人ほか、新曜社)など。 連絡先:nagase0902(a)gmail.com

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遅読こそ最高に誇れる読書術である

1、なぜ今、遅読なのか 今日は「遅読こそ最高に誇れる読書術である」というタイトルで「遅読」、つまり、遅く読むことの意味について、お話ししたいと思います。なぜそんなことを話すかというと、せっかくなのでこの機会に誤解を解きたいからです。よく書評家です、と自己紹介をすると、「一ヶ月に何冊読むんですか?」とか「一冊の本をどれくらいの速さで読めるんですか?」みたいに聞かれることがほんっとうに多いんですね。そのたびに僕は気まずさを感じて逃げ出したくなります。そういうことを尋ねる質問者は

    • 『文學界』10月号に尾崎世界観『転の声』(文藝春秋)の書評を寄せています。

      惜しくも芥川賞受賞ならなかった本作ですが、書評は日本初のプレミア(ム)マーケティング論としてビジネス界で17年前に話題となった写真の本の引用から始めています。 というのも、この小説は本来的な価値の超過分であるプレミア消費が音楽のシーンと結びつき、ある臨界点を超えてしまった世界を描いた作品だからです。 前掲のマーケ本を手かがりに、本作にあらわれている現代的な空虚さとは何かを考えました。 僕は、プレミアという虚構に呑み込まれ、現実の重さを実感できなくなった大衆の精神性を描い

      • 「週刊読書人」(2024年8月30日号)に申京淑『父のところに行ってきた』(姜信子・趙倫子訳、アストラハウス)の書評を書きました。

        申京淑さんと言えば『母をお願い』が有名ですが、今作は父について書くことで誰も知り得なかった社会の痛みを探る物語。父と久しぶりに暮らすことになった〈私〉が、ひと知れず夜中に涙を流している彼の人生を辿りなおしながら、堰き止められていた涙の根源にあるものを見つめていくんですね。 ただ書評では、父の物語であるのと同時に、現代の韓国社会で娘を喪失した母としての〈私〉の回復の物語でもある、と読みました。 というのも、語り手の〈私〉が娘を失った過去を持つのは早々に語られるのですが、慎重

        • 「週刊金曜日」(2024年8月23日号)に前川仁之『人類一万年の歩みに学ぶ 平和道』(集英社インターナショナル新書)の書評を書きました。

          平和論でも、学でも、考でもなく、〈平和道〉。人類が平和を構想してきた一万年の歴史をたどりながら、博愛の理想を追求するための一本の道を作る。材料とするのは、それぞれの時代で平和思想を唱えた思想家たちの書物。それら万巻の本を読みほどき、現在に向けて蘇生する本書は、博覧強記な著者ならではの考える力の波打つ思想書です。 史上初めて平和条約が結ばれたエジプト文明から、古代ギリシャのアテナイやキリスト教が公認の宗教となった帝政ローマを通り、コロンブスが先住民の地を侵略した大航海時代やフ

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        遅読こそ最高に誇れる読書術である

        • 『文學界』10月号に尾崎世界観『転の声』(文藝春秋)の書評を寄せています。

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          20本

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          堀江敏幸訳『土左日記』を読んで考えたこと ーー あるいは「日本語」の生成について

          優れた現代文学としての『土左日記』 「週刊金曜日」(2024年8月2日号)に紀貫之『土左日記』(堀江敏幸訳、河出文庫)の書評を書いた。新刊を紹介する欄で有名な古典作品を取り上げたのは、この新訳がすごく創意に富んでいて画期的だからだ。 『土佐日記』といえば、〈をとこもすなる日記といふものををんなもしてみむとてするなり〉として、男性が女性のふりをして書いた随筆だと習ったはず。しかし、今回の新訳を読んで、その印象は大きく変わった。 まず、この『土左日記』(「佐」と「左」の表記

          堀江敏幸訳『土左日記』を読んで考えたこと ーー あるいは「日本語」の生成について

          「週刊金曜日」(2024年7月19日号)にサマル・ヤズベク『歩き娘 シリア・2013年』(柳谷あゆみ訳、白水社)の書評を書きました。

          サマル・ヤズベクは複雑な世界の語りがたさ、描きづらさを熟知し、けれども、絶望と諦念の淵に落ち込むことなく、現実と釣り合う言葉を探してきた作家です。以前、僕はこの小説家のノンフィクション・ノベル『無の国の門』を読み、打ちのめされたのをおぼえています。シリアという国の現実を物語として再構築し、その惨状をありありと、そこに生きる人々をいきいきと描いたこの小説家は、これからの世界にとって必要な人物なんじゃないかと思いました。(この小説についてはこちらでも触れています。)  わから

          「週刊金曜日」(2024年7月19日号)にサマル・ヤズベク『歩き娘 シリア・2013年』(柳谷あゆみ訳、白水社)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年7月5日号)に黒川創・瀧口夕美『生きる場所をどうつくるか』(編集グループSURE)の書評を書きました。

          編集グループSUREの本を読んだのは、鶴見俊輔『たまたま、この世界に生まれて』が先だったか、瀧口夕美『民族衣装を着なかったアイヌ』が先だったか、忘れてしまいましたが、とにかくどちらかの本かが最初でした。この出版社は従来の流通制度で本を売っていません。本屋には流通を通しておろすことがなく、注文をした読者に、一つひとつ丁寧に手渡すようにして販売をしているのです。 『生きる場所をどうつくるか』によると、この出版社は元々、黒川の父親、北沢恒彦が一人で運営する編集グループだったようで

          「週刊金曜日」(2024年7月5日号)に黒川創・瀧口夕美『生きる場所をどうつくるか』(編集グループSURE)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年6月21号)にキム・フン『ハルビン』(蓮池薫訳、新潮社)の書評を書きました。

          キム・フンは日本でもすでにいくつか小説が紹介されていますね。わかる範囲で挙げると『孤将』(蓮池薫訳、新潮社、2005年)、『黒山』(戸田郁子訳、クオン、2020年)、『火葬』(柳美佐訳、クオン、2023年)なんかがあります。韓国国内では歴史を題材にした小説で高く評価された大御所作家として読まれているようで、以前、韓国の文壇に精通している知り合いに、韓国版の宮本輝って言えば日本の読者にはわかりやすいかも、と教えてもらったのをおぼえています。 キム・ フンの語りには独特の

          「週刊金曜日」(2024年6月21号)にキム・フン『ハルビン』(蓮池薫訳、新潮社)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年6月7日号)にツェリン・ヤンキー『花と夢』(星泉訳、春秋社)の書評を書きました。

          少し前に、チベット研究者の星泉さんが監修を務める、チベット文学と映画の雑誌「セルニャ」(Vol.4)に本作と作者のことが紹介されていました。 「『花と夢』はラサで活躍する人気女性作家ツェリン・ヤンキの最新作にして、初の長編である。ツェリン・ヤンキは現代チベット語文学の黎明期の一九八〇年代からチベット語で小説を発表し続けている貴重な存在である。チベットには漢語で小説を書く女性は少なからずいるが、チベット語で書く女性となると極めて少ない。この作品はチベット自治区出身の女性作家に

          「週刊金曜日」(2024年6月7日号)にツェリン・ヤンキー『花と夢』(星泉訳、春秋社)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年5月24日号)に『戦争は、』(ジョゼ・ジョルジェ・レトリア 文、アンドレ・レトリア 絵、木下眞穂 訳、岩波書店)の書評を書きました。

          この不穏な時代を忘れないために、いつまでも、ずっとずっと大切にしたい絵本です。 作者のジョゼ・ジョルジェ・レトリアとアンドレ・レトリアは父と息子です。父親が詩を書き、息子が絵を描く。そんな彼らの作品には例えば、宇野和美さん訳の『もしぼくが本だったら』があるのでご存知の方もいるかもしれません。 今回の本は、表紙をめくると、薄い黒を基調とした紙に蛇のような細長い、軟体の物体がいくつか描かれていることにまず気が付くでしょう。生き物のようにも見えるし、抽象的な、何かの概念そのもの

          「週刊金曜日」(2024年5月24日号)に『戦争は、』(ジョゼ・ジョルジェ・レトリア 文、アンドレ・レトリア 絵、木下眞穂 訳、岩波書店)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年5月10日号)に上川多実『〈寝た子〉なんているの?』(里山社)の書評を書きました。

          知らないという何気ない状態が誰かに痛みを与えているという事実。この社会のなかで責任を持って生きることの意味。たくさんのことを教えてくれる本です。 著者の上川多実さんは被差別部落にルーツを持ちながらも、東京で育ちました。だからこそ、上川さんは幼い頃から違和感を感じながら日常を過ごしていたと言います。それを内と外のズレという言い方で上川さんは表すのですが、つまり、両親に教わった差別の実態が家の外では共有されないわけです。 東京では、差別を知るための教育すらない。そのおかしさと

          「週刊金曜日」(2024年5月10日号)に上川多実『〈寝た子〉なんているの?』(里山社)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年4月12日号)にカラー二・ピックハート『わたしは異国で死ぬ』(髙山祥子訳、集英社)の書評を書きました。

          この小説が描くのは2014年にウクライナで起きたユーロマイダンという革命。当時のヤヌコビッチ大統領による親ロシア的な政策に抗議する人々が治安部隊と衝突し、おびただしい数の死者が生まれたあの革命に取材したアメリカ人の作者は、キーウにあるマイダン広場を中心に、一つの大きな悲しみの物語を紡ぎます。現在の世界に生きる〈わたし〉たちならみんなが共有しうる、痛みや喪失としての悲しみの物語を。 語り手のまなざしの先にいるのは、三人の男女。 ひとりは、広場付近の修道院で働く医者のカーチャ

          「週刊金曜日」(2024年4月12日号)にカラー二・ピックハート『わたしは異国で死ぬ』(髙山祥子訳、集英社)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年3月29日号)に金成玟『日韓ポピュラー音楽史』(慶應義塾大学出版会)の書評を書きました。

          K-POPが日本の日常的な風景の一つとなって、どれくらいが経つでしょうか。というものの、じつはそれって最近のことなんですよね。戦後の韓日の音楽史を考えると、両者は真正面からなかなか出会うことができない時間を過ごしてきました。 では、なぜ僕らは出会えなかったのか。本書は、戦後から現在までの日韓の音楽史を追いかけながら、両国の音楽がなぜすれ違い、あるいはぶつかり、ズレを生み、また融和したのかを論じた一冊です。 この本のキーワードの一つは〈まなざし〉。本書で、著者の金さんは、旧

          「週刊金曜日」(2024年3月29日号)に金成玟『日韓ポピュラー音楽史』(慶應義塾大学出版会)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」2024年3月15日号に中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房)の書評を書きました。

          今回の書評では、いま、なぜエドワード・サイードなのか、という問いを立てて、本書を評しました。端的に言えば、この本が試みているのは、サイードとともに、批評の力を取り戻すことです。だから、著者はサイードと真摯に対峙しながら、彼にとって批評とは何だったのかを追跡するわけです。 著者の中井亜佐子さんは言います。 そして、次の文章が続くのですが、ここはこの本のこころざしが最も明確に表れている箇所です。 サイードの批評意識とは何だったのか。たとえば、それは、理論を机上で形骸化させな

          「週刊金曜日」2024年3月15日号に中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」に沼田真佑『木山の話/幻日』(講談社)の書評を書きました。

          僕は、この人の言葉をずっと、ずっと待っていました。沼田真佑さんの二冊目の本。2017年に芥川賞を受賞した『影裏』以来なので、七年ぶりですか。長かった。 木山という男の、連作短編集です。この作品集のなかに収められた八つの短編では、東北に住む小説家であるこの男が東北や東京のあちこちをとにかく移動し続け、たくさんの人と出会います。気になるのは、そんな彼がどこか仄暗さを抱えているように見えることです。ありていに言えば、木山は孤独である。書評ではその「仄暗さ」を探っているので、そちら

          「週刊金曜日」に沼田真佑『木山の話/幻日』(講談社)の書評を書きました。

          「週刊読書人」(2024年2月16日号)に杉浦静『宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ』(文化資源社)の書評を書きました。

           宮沢賢治の『春と修羅』は、一見詩集のように見えますが厳密に言えば、そうじゃありません。賢治本人は、それを〈心象スケッチ〉と呼び、〈仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明〉である〈わたくしといふ現象〉が明滅する瞬間の影と光、つまり、外界の風景を前にした心の機微の描写と捉えたのです。ノートに記されたそんなスケッチは、いくたびにもわたる差し替え、加筆、削除を経て、作品集として編まれていったわけです。  この本は、賢治研究の第一人者として、この〈心象スケッチ〉の生成変化そのも

          「週刊読書人」(2024年2月16日号)に杉浦静『宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ』(文化資源社)の書評を書きました。