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「週刊金曜日」に沼田真佑『木山の話/幻日』(講談社)の書評を書きました。

僕は、この人の言葉をずっと、ずっと待っていました。沼田真佑さんの二冊目の本。2017年に芥川賞を受賞した『影裏』以来なので、七年ぶりですか。長かった。

木山という男の、連作短編集です。この作品集のなかに収められた八つの短編では、東北に住む小説家であるこの男が東北や東京のあちこちをとにかく移動し続け、たくさんの人と出会います。気になるのは、そんな彼がどこか仄暗さを抱えているように見えることです。ありていに言えば、木山は孤独である。書評ではその「仄暗さ」を探っているので、そちらを読んでいただくとして、木山の人間性を表す言葉をちょっと引用しましょう。

木山は鬱病を抱えているのですが、作中では次のように表現される。

持病のようなもので、木山はこれを鬱ではなく熊と呼ぶのだが、これは自分が軽症であることからの遠慮であって、以前は小鬱と称していた。それがあるとき、成獣の羆が獲物に襲いかかる映像を目にしてからというもの、熊と呼ぶようになった。

また、木山はインターネットを疎む人間ですが、そのことをこう書く。

その通いはじめからかぞえて、思えば四半世紀にもなる木山だったが、いつ訪れても、森は湿り暗く、かつは汚れていた。偽善の、拝金の、劣情のうんぬんと、守りに冠すべき形容は、そのときどきの印象に応じて変わるのであったにもせよ、そこを出入りする人々の屎尿の、まさに垂れ流されるにまかせていることでは、じつに森なのだ。/(つまるところ、汚辱の森か)/と、あくまで距離をとり、超然と見おろしていたかったが、しかし森は便利だ、もはやそれなしで生きるのに困難を感じさせられるほど、根深く広くはびこっている。

凄まじく静かで強くて靱やかな文章。そのなかで、鬱を〈熊〉、ネットを〈森〉とあらわし直された言葉は、木山を俗世から引き剥がす。そしてそこにあるのは木山の孤独なわけです。先に述べた通り、木山はこの作品集のなかでたくさんの人と出会うのですが、彼は社会と交わろうとしません。水に対する油のように社会に溶け込まない彼は、一人、世界を憂う。憂いながらも、彼のまなざしは若い人々を見守るふしぎなあたたかいひかりを放っています。

国立大学の敷地の並木道のほうへ歩いていくと、腕を組み歩く若い男女が、道の先に見えた。道に散り敷いたさまざまな色形をした葉の上を、ふたりはしかし、照れているのだろうか、ぎこちない足取りで歩いている。/やがて擦れちがい、少しして木山は振りかえり、小さくなっていくふたりの後ろすがたを見送った。天気の変わりやすい時期、もしひと雨来たら、濡れた落ち葉で道は滑りやすくなる、もっとしっかりつかまったほうがいい。(世界は悪くなる一方なんだから)/そのとき少年は、ズボンのポケットに両手を突っ込んでいなければならない、転倒を恐れて手を出しているようじゃ、信頼は生まれない。

木山の仄暗さは、もしかしたら、そのまま、この世界の昏さなのかもしれない。彼は、こんな世のなかに生きざるを得ない若い人々、子どもたちが安心して転べるように護っているのではないか。悪化の一途をたどる世界で孤独でありながら、言葉を紡ぐこと。それが、この世界から希望の根を絶やさないための、最後の、でも、何にもかえがたい、あがき、なのではないでしょうか。

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