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「週刊金曜日」2024年3月15日号に中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房)の書評を書きました。

*エドワード・サイード:1935年ー2003年。パレスチナにルーツを持つ批評家。著書にポストコロニアル批評の嚆矢となった『オリエンタリズム』などがある。

今回の書評では、いま、なぜエドワード・サイードなのか、という問いを立てて、本書を評しました。端的に言えば、この本が試みているのは、サイードとともに、批評の力を取り戻すことです。だから、著者はサイードと真摯に対峙しながら、彼にとって批評とは何だったのかを追跡するわけです。

著者の中井亜佐子さんは言います。

肖像画を書くのはあきらめるとしても、サイードの著作について語るとき、人間としてのサイードになんらかのかたちでかかわりたいという願望を棄て去ることは難しい。さきにも述べたとおり、彼にはその人間性に触れ、人間そのものを批評したいと渇望させる何かがあるからだ。

そして、次の文章が続くのですが、ここはこの本のこころざしが最も明確に表れている箇所です。

批評家を批評する。批評を批評するのではなく批評家を批評するのだと、あえて強調してみたい。たんにテクストを読んでいるだけでは、けっして批評にはならない。批評はテクストを成立させているあらゆるものを貪ろうとする。そして結局のところ、どんなにナイーヴだと思われようと、たいていの批評家は「作者」という人間を批評したいと考えている。

サイードの批評意識とは何だったのか。たとえば、それは、理論を机上で形骸化させないことを目論む。あるいは、それは、現実との相剋のなかで理論を捉え直すことを目がける。本書のなかでそれらを批評的に読み解く著者は、〈わたしたちがいまなすべきことは〉と言い、次のような言葉を紡いでます。

かつてのスターたちへの批判を学問共同体内部の卓越性のゲームに貶めることではない。必要なのは、批判をより社会的な批評として、公共に開いていくことなのではないか。つまり、理論をつねに徹底して歴史化しつつ、変容する社会と理論のあいだの齟齬や矛盾にこそ目を向けて理論を鍛えなおすこと――既存の理論に抗し、理論によっていまだ説明されない経験を汲みとろうとする、研ぎ澄まされた批評意識によって。

理論的な解釈の余剰にこそ、現実を理解する一途があることを教える、こうした著者のサイード解釈は、僕はこれから学問(研究や批評)の道をこころざす人、あるいは、その道を歩き始めたばかりの人の指針となるものではないかと思うんです。

いや、そう書くと、この本の射程を狭めてしまうかもしれませんね。批評が必要とされない世界などないと僕は思っていますから、権力や、共同体を束ねるシステムに抵抗するこころざしのある全ての人に向けて、この世界を歩くための指標を提示してくれる一冊だと言っておきましょう。サイードの批評精神を見事に〈現実のなかに蘇らせた〉 ―― かつてサイードが理論の旅を実践することで他者の理論を〈自身の住まう現実のなかに蘇らせた〉ように ―― 著者の誠実な言葉の数々をぜひ受け止めてください。

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