観る怪奇、触れる逆鱗、NOPE
NOPE!(ありえない!)
そんな一言がタイトルの映画NOPEを半信半疑で観てきた。
ゲットアスとかの社会派のスリラー映画なので身構えていたし、なんなら途中に「ゔぉっ!」と声を漏らしていた覚えがあるような、ないような。
正直、めちゃくちゃ面白かったとは断言ができない感じの面白さで、観終えてすぐに「面白かった!!」とは言えない。
なのに、今になって(あれは…面白かったな…)としみじみ感じるタイプの面白さだったことを自覚しつつある。
まだ間に合うから観に行ってほしい。
舞台はサンフランシスコ。ハリウッドで最初に撮影された馬の牧場を切り盛りする兄弟が、ある怪異に遭遇することから物語は始まる。
厳密にはある事件が描かれてのスタートになるけれど、それはご愛敬。
ストーリーは至ってシンプル。
赤字経営の牧場再建に向けて未確認飛行物体を撮ってガッポリ儲けようぜ!と意気込む兄弟たちの話だ。
なのにどうしたことか、ジャンルとしてはSFホラーに分類されるであろうこのNOPE。
一体どこにホラー要素があるのだろうか。そんなことを鑑賞中に思っていたのも束の間、ビビらせてくるタイプの怖さと同時に、ヒトの怖さをひしひしと感じ、さらに最後には完璧なカタルシスと遭遇できる。
そんな映画だった。
謎の存在である未確認飛行物体、UMAとでも書いておこうか。
「それ」は、自分の安住の地を脅かす存在を絶対に許さない。それを見つめるものを確実に追い詰めて喰らう絶対的な存在として、今作の恐怖は位置付けられていた。
目が合うと襲いかかってくる恐怖を、観るために作られた劇場で描かれる固定された恐怖として演出されていたことが恐ろしい。
観るための劇場で「見ないこと」を強いられる映画体験、ちぐはぐすぎる。
スクリーンに映る圧倒的な円盤らしきそれと、それを直接見つめることなくそれに付随するものを見つめ直す兄弟。
そしてそれを観る自分たち観客。
「観る/見る」という動作に込められた意味の多さに驚きながら、最終的には自分もまた「見られていた」という怖さに落ち着くのが今作の面白いところではないか。そう思っている。
ストーリーとしては単純なものなのに、どうしてこう分かりにくくて難解な説明をしているのか、自分でもさっぱり納得がいかない。
とりあえず観てくれ。これは映画館でしか得られない体験。それだけは言える。
ここからはネタバレ上等で書かせてもらう。
さっきも「見る/観る」ことがテーマだと書いていたけれども、至ってその通りではなかろうか。
家族役のキャストに襲いかかったチンパンジーに対し、偶然「目を合わせなかった」ことによって命が助かった男に、見つめることを放棄していた結果見なければいけなかったことを見ることができなくなっていた男、見ることに拘り続けて最後まで見ることを追求した男に、見ることを見られる媒体として広げることに執念を燃やす男。
今作ではそんな見ることについて徹底的に寄り添って描かれたシーンが数多くある。
黄色人種のサルが白人に貶され「見られなかった」ことがきっかけで傷つけられたことだって、オマージュとしては完璧だろう。
ゴシップ誌が「見ること」を急いたことで殺されることだってそうだ。
目を合わせなかったことが救いであったとは感じずに、これから先も怪異とは共存ができると勘違いした男もいた。
目にすることがメッセージであるとしても、昨今は目に映るものがあまりにも多い。多すぎる。
目にしたらそれについて考えなければいけないし、考えなくていいものはすぐには思いつかない。
車で走っていようと、新幹線に乗っていようと、馬に乗っていようと、目に映るものについて無関心でいられる保証はもうどこにもない。
そんな時代に、それも座って観続けることが求められる映画館でこんな映画をお作り遊ばせするジョーダンピール、怖すぎるだろ。
そしてこのnoteも誰かに読まれて消費される。もう自分たちは見ること、消費することからは逃げられなくなっている。
そんなことを考えると同時に、空を見上げて雲を見た瞬間、自分も見られているのではないか。
深淵を覗くものは深淵に覗かれている。みたいな言葉は、案外身近な存在だったのかもしれない。
一方的な消費は、消費されるモノにとって絶対に許されない。される側からも確実に見つめられている。
もう目を離したって、見て見ぬ振りができなくなって、これからどうすればいいのだろうか。
そんなことを運転しながら動かない雲を見て考えていた。
間に合うから観に行ってきてください。多分面白いんで。
では。