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とりあえずの「褒め」は正しいのか?

昨日の記事で、読書をするにあたって図解とかメモをする方がいいのではないか?みたいなことを書いたのでさっそく今日は本を読みながら紙にメモをしたりまとめたりしてみた。

昨日の記事はここから飛べます。

ルーズリーフ1枚にとりあえず自分の中で気になったこととか勉強になったこととかをメモしたりしていると、読んでいる最中には気づくことができなかった疑問や気づきが湧いてきた。

今回書いたメモも一応ここで残しておきます。

自分でも(これはどう読むんや…?)みたいなレベルの難読メモになっているのはご愛敬。最初から人に読んでもらうつもりで書いたわけじゃないから仕方ない。

ケーキの切れない2

ケーキの切れない1

今回は『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだ。

このメモの最後の方に書いていることが今回の記事で書こうと思ったことで、褒めることは本当に正しいのか?ということについて考えてみる。

褒められることについてそれを嫌がる人はいないだろう。多少捻くれているなら嫌がるかもしれないけど、最近は自分も褒められたら素直に感謝している。

日本人はあまり人を褒めないし褒められないみたいなことを昔に聞いたことがある。

自己表現をあまりしない人種らしく、他人に自分の感じた評価を伝えることをあまりやらないそうな。

外国人、ここではアメリカ人を挙げるけど、言われてみれば確かにあっちの国の人って何かにつけてリアクションが派手な気がする。

いいことをしたら歓声が上がるし、よくないことをするとブーイングが起こるイメージは今では古いのだろうか。

ロケットが無事に発射された時の管制室とかで書類が投げられまくるのは今ではもうなくなったのだろうか。

それはさておき、身近な場所で言えば職業柄なのかもしれないけど外国人の英語の先生はよく褒めてくれた気がする。

些細なことであっても「いいね!」みたいな感じでとりあえず褒めてくれた覚えがある。

今回の疑問が出たきっかけとしては、この本に書かれていた「とりあえず褒めることによる解決法」についての筆者の懸念を読んだからだった。

非行少年に対するケアや、学校における不良少年や学習障害を持っているような子供に対するアプローチとして、褒めることが頻繁に挙げられるらしい。

何かしらの結果を出した際に毎回褒めることは、そういった少年たちの根本的な問題を先送りにして表層的な成功にしか注目をしないことなのではないか?みたいな考え方だった。

最近は引用だとかファスト映画問題だとかがあるからあまり細かいことを書いていいのか分からないのでこんな感じでざっくり書きます。

確かにそうだ。

本来の問題に着目することなく安易に褒める行為は果たして根本的な問題に対するアプローチとして正しいのか?これが自分の中で考えている最初の疑問。

ざっくりだけど、認知機能について簡単に説明すると、人の行動は認知機能によって基盤が作られていて、認知→実行→結果として毎回の行動は行われている。

つまり、行動をするにあたって最初の認知の部分(認知機能)が低ければ実行プランなどがブレてくるのだ。

ここで挙げられていた問題は、遂行機能が低い少年をどのようにケアすべきか。という問題におけるアプローチとしての褒めることに対して注目がされている。

遂行機能とは実行機能のことで、問題解決能力のことを指す。つまり、認知機能が低いことによって問題を解決することが難しく、短絡的な行動(Ex.非行)に走ってしまうケースなどが挙げられている。

こういった少年に向けて、ただひたすらに何かしらの進歩や改善を褒めることは果たして正しいことだと言えるのか?ということが問題となっていた。

こういった褒め続けることによる問題が、褒めて伸びるタイプと感じてしまう少年が増えてしまうということを筆者は書いている。

「僕/私、褒められて伸びるタイプなんで」

こういった言葉をどこかで聞いたこと、あるいは言ったことがあるのではないだろうか。

褒められることを待つ、いわば「褒め待ち」をすることは果たして成長を促進していると考えられるのだろうかと考えてしまう。

人を褒めて伸ばすという考え方には大いに賛成だけど、問題を先送りにして「とりあえず褒める」というアプローチはすべきではないのだと考えさせられた。

褒めて伸びるタイプは確かに自尊感情を伸ばされるだろうけど、根本的部分における問題は解決されるのだろうか。

それとも、あまり褒められずに修正箇所をたくさん指摘されるタイプは根本的な問題を解決されることはあってもモチベーションは高いまま維持できているのだろうか。

自分はここ数年、人のことをなるべく褒めるように心がけている。褒めると言うとどこか上からな感じになってしまう。肯定的になるように心がけていると書く方がジェントルかもしれない。

最近では自分が色々な場において上の方の役職についていることもあり、なるべく働いてくれている人たちのことを褒めるように心がけている。

誰でもできるような仕事であってもその行動に感謝を表すし、何か頑張ってくれていたのであればそれもしっかり言葉にして褒めるように意識している。

心なしか褒められた人はそれ以降も継続していい仕事をしてくれているような気がしているのは気のせいだろうか。

でも、今回こうして安易に褒めることによる問題を踏まえると、むやみやたらに褒めることについて本当にそれでいいのかと考えさせられてしまった。

よく考えると、別に自分は何でも褒めているわけではない。やってもらった仕事とかに対して感謝しているだけであって、それは気持ちの入っていない空虚な褒めではないだろう。

多分きっと自分はこのままでいいのだろう。知らんけど。ハラスメント的なことをしているつもりはないし、ルッキズム的な部分で褒めることもしている自覚はない。当分はこのまま誰であっても褒め続けようと思う。

最近では何でも肯定してくれるキャラクターが流行っていたりしているそうな。

生きているだけで偉いだとか、息をしているだけで偉いだとか、最低限の行動を褒めてくれるキャラクターが大人気なことを考えれば、日本人は褒められることが足りていないのではないかとすら思ってしまう。

最低限の行為に対する褒めと大したことでもない行為に対する雑な賞賛、どちらを自分たちは欲しているのだろうか。

今日もオリンピックが続いている。新種目のスケートボードの中継で、順位争いをしているはずなのに大技に挑んだものの失敗してしまった選手を別の国の選手が褒め称えてたところが映されていた。

多分こういうことなんだろうな、と考えさせられてしまった。

きっと褒めることについて基準だとか気遣いだとかは要らないのだろう。すごいことをやったのならそれはすごいし、やらかしたって挑戦していたのだから賞賛する。それくらい「雑」に褒めていいのだろう。

少し前に流行っていた、全員で手を繋いでゴールをして全員が1位になる運動会の短距離走とかの過度な競争からの妥協的な脱却とは違う方向の競うことに関する価値観が若い世代から生まれているのかもしれない。

1位もあっていいし最下位だってあっていい。競争なのだから優劣は絶対に出る。でも、競争に参加する以上全員が賞賛されるべきことなのだ。スタートラインに立つことだけでも、勝負には勝っているのかもしれない。

褒められ足りなかった世代と褒められる、あるいは褒め合うことに慣れている世代。後者が前者に呑まれることなく伸び伸びと褒められ続けてほしいと感じた。

今日はこんな感じで終わろうかと。メモしながらの読書、確かに悪くない気がしている。とりあえず夏休み中はメモを意識しながら読んでみようかと。

あわよくば図解を初めてみたいところ。

あれ、著作権的にはどうなんでしょ。

ではまた明日、おやすみなさい。

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