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言葉で理解る、体験して理解する

 今日も今日とてバイトに行った。仕事納めはまだまだ遠い。

 いつもの折作りをしていた時間は短く、初めての仕事がたくさんあった。

 シーラーという機械で袋を接着したり出汁をボトルに詰めてキャップを締めたり、そして初めて鶏の血合いを取った。

 「血合い」は分かるだろうか? ある程度捌かれた鶏の内臓や骨周りにくっついて残っている赤い血の部分。

 最初にその作業を頼まれた時は目の前でバケツいっぱいに積まれている生々しい「死」に対して恐れ慄いてしまう。アニメとか映画では見ていても実際に見てしまうと「いただきます」みたいな高尚な感情よりも「うわっ……」みたいな気持ちが先走った。

 Youtubeとかで捌く系の動画を見たことがあっても実際のものをみたら体は硬直する。

 おっかなびっくり、恐る恐る生の鶏肉に触れる。

 ぐちょりとしつつもしっとりとした感触、初めて触れる少し前まで動いていた内臓。

 それらをひたすら取り除く。

 数分もすれば仕事をしている以上ある意味残酷な行為に慣れてしまう自分がいる。

 そう、その「慣れ」が自分でも今となっては少し怖かった。

 自分が食べるものの背景にそれだけの残酷さが伴う行為が挟まれていたこと、そして自分もそれを体験してしまったこと、これから鶏肉を食べる時どんな気持ちになるのか?

 トラウマになってしまって鶏肉を食べることが出来ないのではないかと感じていたけど、今日の晩ご飯はチキン南蛮と唐揚げだった。おいしかった。

 一際おいしかった。

 そのチキン南蛮と唐揚げは自分が処理した鶏肉ではなかったけど、多分今日の処理を体験していなければ「まぁ普通」なチキン南蛮だっただろう。

 「命をいただく」ことについて少し考えることが出来た気がする。

 「これもある意味食育だよ」と隣で作業をするシェフの先輩が笑いながら話していた。

 スーパーに並ぶパック詰めされた生きていたことを感じることがない商品。切り身にされた魚の刺身やコマ切れの肉がどうやって届くのかを知らない子供とどうやって自分が今食べる肉が届くかを知っている子供、どちらが「命の重み」を感じるのだろうか。

 子供の頃タイトルがうろ覚えだったけど「命のたべかた」みたいなドキュメンタリーを観た思えがある。

 牛が屠殺場に運ばれパック詰めされる「肉」になるまでを完全に密着して撮られたドキュメンタリーだった。

 幸運なことに自分の親は食に対して厳しく、小さい頃から食べものを残すことはあまりなかった気がする。

 本物の食を知るべく小さい頃から美食に触れることが多かったおかげか、味覚は今でも鋭敏だと自負している。

 そこらのグルメインスタグラマーよりかはまともな舌を持っている自信はある。

 それでも舌が良くても食に対して高慢であるべきかと考えればそうではないと心から感じる。

 なぜなら自分たちは食べ物を食べさせてもらうことで生かされている存在であると考えているから。

 美食や飽食などただの食事の延長線上でしかない。

 そんなことを今日の帰りに考えていた。

 「いただきます」と「ごちそうさま」の重みが増した。

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