【読書コラム】わたしたちが苦しいのはゴールのない競争をさせられているから - 『じゅうぶん豊かで、貧しい社会 理念なき資本主義の末路』ロバート・スキデルスキー,エドワード・スキデルスキー(著), 村井章子(訳)
先日、マシュマロでスキデルスキーの『じゅうぶん豊かで、貧しい社会 理念なき資本主義の末路』が面白いらしく、読んでみたいと思っているけれど、読む時間がないので、代わりに読んでほしいというメッセージを頂いた。
この本について、わたしは全然知らなかったのだけれど、調べてみると各所で話題になっていたようで、たしかに面白そう。
だから、早速、Amazonで購入し、読んでみた。
議論はケインズが1930年に発表した「孫の世代の経済的可能性」という小論文から始まる。これはいわゆる技術革新によって、富が自動的に生み出されるため、人々は働く必要がなくなるというユートピア思想。
なるほど、たしかに技術は目覚ましい進歩を遂げた。しかし、いま、わたしたちは便利なの世の中でもあくせく働いている。スキデルスキー親子はこの矛盾を真正面から考えていく。
まずはケインズの間違いについて語られる。当時、貪欲は恥ずべきものとされていた。そのため、満たされた生活があれば、みな、労働をやめるだろうと思うのは常識だった。
もっと言えば、余暇を過ごすことに価値が置かれ、労働は充実した余暇のために存在していた。労働は余暇を持てない貧乏人がするもので、金持ちがさらに金を得ようと躍起になって、がむしゃらに働くようなことはなかった。
ところが、資本主義が成熟する過程で、あらゆるものがお金に換算できるようになり、余暇は単なる余暇ではなくなってしまった。
その一例として、時間をお金に換算した時給のインパクトは大きい。本来、労働の対価だった賃金が、時給の登場で時間の対価に変わってしまった。そのなにが問題なのか。働いていない時間、損しているように感じてしまうのだ。
バイトが休みの日、2時間の映画を見ようとするとき、つい、この時間働いていたら2,000円ちょっとにはなるんだよなぁ、と頭によぎったら最後。映画を楽しむ余裕はなくなる。気づけば、シフトに入るだけ入ろうとするバ畜が出来上がっていく。
これは時給の安いバイトに限った話ではない。むしろ、高級取りであればあるほど、休むことで機会損失する金額は大きくなるので、ワーカホリックまっしぐら。仕事以外のことをしたくなくなってしまう。
そういう意味でコスパとタイパはつながっている。
自炊でカレーを作ったとする。一食あたりの材料は200円ぐらいだろうか。これだけ見たら安いと言える。
ただ、買い物や調理にかかった2時間で時給1,000円のバイトができると考えたらどうだろう。このカレーは2,200円の損失へ姿を変える。ならば、2時間働き、外食で一食1,000円のカレーを食べた方が手元に1,000円残るので得という結論が導き出される。
こうして、カレーを作る喜びはコスパとタイパによって消失し、利益を産まない行為はすべて無駄のラベルを貼られてしまう。そして、消費が気休めとして機能する。
結果、我々は知らぬ間に日常のあらゆるところで損得を基準にした選択を迫られるようになっていく。そして、なんのためにいくら必要なのか、具体的な目標を持たないまま、多いに越したことはないという精神でもって、とにかく働き続けている。
そのため、明石家さんまがキッコーマンのCMで「しあわせって 何だっけ 何だっけ」と歌っていたけれど、現代人は幸福を定義するのが難しくなっている。
貪欲が恥ずべきものとされていた時代はそうじゃなかった。人々は幸福について、本気出して考えていた。スキデルスキーはそのことを示すため、東西の思想家や哲学者の言葉を紹介するのだが、その中でも、十七世紀、中国の批評家・金聖嘆が書き留めた「快哉三十三原則」は心に染みた。
どれもコスパとタイパの観点から見たら、くだらない出来事ばかりである。ただ、本来、こういう何気ない瞬間を愛でることに生きる喜びがあったのではないか。
いまや、余暇は労働のための準備期間となってしまった。労働によって消耗した体力を回復し、次の労働に備えることが休日の目的になってしまった。
昨年、テレビ東京で放送され、話題となった『SIX HACK』という番組で、そんな現代のプロレタリアートの実情が描かれていた。16:48〜のナレーションを書き起こす。
働くことはしんどく、その先に幸福がないことはわかっているのに、それでも働き続けるわたしたち。AIが人間の代わりに働いてくれると聞いて、これからは楽に生きられると喜ぶのではなく、自分の職が失われるかもと不安になってしまうわたしたち。
なぜ、わたしたちは働かないではいられないのか。スキデルスキーはそれをゴールのない競争のようなものであると説明する。
絶対的なゴールがあれば、そこにたどり着けさえすれば満たされるわけで、誰もが自分のペースで人生を謳歌できる。しかし、そうではなくて、他の人たちより前に行くという相対的な勝利を目的とした場合、それは悲劇以外のなにものでもない。自分より下の人たちを見てホッとする一方、上の人たちを見て心を乱し続けなければいけないのだから。
そうなると豊かな人たちが貧しい人たちに施しをする理由はなくなる。他人は皆、ライバルなわけで、可哀想だからと手を差し伸ばすことは敵に塩を送るようなマネ。むしろ、もっと距離を離すべく、より豊かになろうとしてしまうだろう。
すると、つい、我々は資本主義を捨てて、幸福を追求する生き方をすべきと思ってしまうけれど、スキデルスキーはそんなことをしても意味がないと言っている。
なぜなら、苦しみは資本主義そのものではなくて、ゴールのない競争に起因しているわけで、成長という曖昧な目標を幸福という曖昧な目標にすげ替えたところで、本質的な違いはないのだ。
なお、スキデルスキーは解決策として、法規制による労働時間の短縮、一定水準の暮らしを保障するベーシックインカムの導入、過剰に欲望を刺激させないための広告課税などを提案している。
たぶん、これらがちゃんと機能したとすれば、我々は働かなくてはいけないという苦しみから解放されるだろう。だが、問題はこれらがちゃんと機能する未来が想像できないことである。
じゃあ、どうすればいいのか。社会レベルの変革が途方もない構想であるならば、我々にできることは個人レベルで価値観を変えていくことだけである。そう、ゴールのない競争から降りるという形で。
他者との比較をやめなきゃいけない。他の人より上へ行こうとするから上下が生まれ、無限に繰り返される勝ち負けに一喜一憂し続ける羽目に陥る。
石ころになることを受け入れなくてはいけない。その辺の道端で転がる石ころのように。
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