【料理エッセイ】わたしたちが忘年会をするのは、一人で生きているわけじゃないと忘れないためなんじゃなかろうか
今年は忘年会が多かった。
仕事でお世話になっている人たちと。大学時代の映画サークルの仲間たちと。中学や高校の同級生と。さらには学生時代に所属していた研究室の集まりにも呼んでもらった。
友だちと会う機会って、歳を重ねるごとにどんどん減っていく。毎日が忙し過ぎて、会おうなんて発想になかなかならない。仮にこちらが暇でも、向こうは暇じゃないかもしれないし、用もないのに連絡するのはついつい躊躇してしまう。
忘年会ぐらいしか、みんなで集まる機会なんてそうそうない。なんとなく、恒例行事ということでグループのリーダー気質な子が声をかけてくれて、惰性で参加していたけれど、思えば、それって凄いことだったのかもしれない。
なにせ、惰性はコロナ禍で途絶えてしまった。2020年の年末、誰かの「今年はやめておこうか」というメッセージに、みんなで同意のスタンプを送り合った。2021年の年末、そんなやりとりをすることもなく、当たり前のように忘年会はなく、互いの近況報告もなされなかった。
大人になると、理由もなく会う相手は家族や恋人に限られてくる。学校に通っていた頃は、昨日と今日と明日がいつだって地続きで、友だちはなんとなくできたし、友情もなんとなく続いた。
卒業後、ほとんどの関係は切れてしまった。別に喧嘩したわけではない。特にトラブルも起きていないし、気まずくもなっていない。本当になんとなく。なんとなく会わなくなっただけ。
逆に、残っている関係もなんとなく。そして、そのなんとなくは忘年会の縁だったのだと、つながりを失い、初めて気づかされた。
だから、今年、わたしは忘年会を復活させなきゃいけないなぁと密かに野心を燃やしていた。きっと、みんなも似たような感覚があったのだろう。どんどん声をかけて盛り上がったし、逆に、たくさん声をかけてもくれた。
いろいろな人たちと再会し、いろいろ話して、自分は一人じゃないんだなぁとありきたりな感動を覚えた。安っぽい話なのはわかっているが、今年、適応障害になり、社会のレールから外れ、漠然とした不安でいっぱいだったわたしにはしっかり沁みた。
お陰様で、この一年間の悩みを忘れると同時に、自分という人間がたくさんの人たちと関わってきた事実を思い出せた。
日常に忙殺されていると、労働=人生みたいに錯覚してしまう。だから、働かなくなると「このままじゃヤバいかも」って怖くなる。でも、生きるって、そんな単純なもんじゃない。むしろ、お金にならない無駄なおしゃべりの方こそ、人生の晴れ舞台なんじゃなかろうか。
とはいえ、毎日が晴れ舞台というわけにはいかない。みんな、それぞれ、退屈だけど重要な毎日をコツコツこなす必要がある。
どうしたって、孤独な時間は生まれてしまう。ただ、みんなに、会おうと思えば会えるとわかっているだけで、孤独の深さはかなりやわらぐ。きっと、そのことをたしかめるために、わたしたちは忘年会をしてきたのだろう。
忘年会って、すごく便利な口実だ。誰を誘うこともできるし、予定が合わなければ、新年会でもと誘い直すことだって可能だ。断られても、翌朝、また同じ理由で誘うこともできる。
究極、わたしたちが忘年会をやっているのは、人間関係を忘れないためなんじゃなかろうか。「あなたに会いたい」とは素直に言えないけれど、今年の憂さを忘れましょうとは言いやすい。けっこうな発明だ。
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