【読書コラム】この人生では読み切れないと思っていた『戦争と平和』をついに読み切ったぞ! 7時間超の映画も見たぞ! - 『戦争と平和』トルストイ(作),米川正夫(訳)
高校生の頃、授業を聞くのが退屈過ぎて、いつも電子辞書ばかり見ていた。スマホが普及する前のこと。なぜか電子辞書がやたらと進歩していて、いろいろな百科事典が収録されていた。とりわけ文学作品についてまとめたものがお気に入りで、世界にはこんなたくさんの本があるんだなぁとしみじみ感動したものだ。
一応、文芸部には所属していたけれど、活動は月に一度あるかないかだったので、放課後はたいてい、いまはなき八王子の古本屋に寄っていた。そこで授業をサボって学んだ世界文学の翻訳本を安く入手し、自宅で読み耽るのが日課だった。
トルストイの『戦争と平和』もそうやってゲットした。岩波文庫の四巻セットで、もう値段は覚えていないけど、1,000円もしなかったはずだ。
たしか、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を数ヶ月がかりで読破して、ロシア文学を征服してやるぞと息巻いていたんだと思う。気分はさながらモスクワ遠征に向かうナポレオン。無論、撤退を余儀なくされた。
なぜ読めなかったのか。理由は明白だった。最初、社交界のシーンから物語が始まるのだけど、いきなり大量の人が出てきて、主人公が誰なのか迷子になってしまったのだ。かつ、交わされる会話もさっぱりわからず、面白いとか面白くないとか、そういう次元の手前、なにも理解できないという絶望感で早々に積読となってしまった。
悔しかったが、たぶん、わたしはトルストイと相性が悪いのだろうと自分を納得させた。捨てないし、売らないし、手放すつもりはないけれど、この人生では読み切ることがないのだろうと思ってきた。
ところが、今月、トルストイとドストエフスキーについて話す機会を頂いたので、これはさすがに『戦争と平和』を読まないわけにはいかないと覚悟を決めた。
大学に進学し、実家を出て、引っ越しを何度か繰り返す中で押し入れの奥に仕舞われていた文庫本を掘り出した。約15年ぶりにページを開いたとき、まさかの再会に少し胸が熱くなった。
なお、ネットで調べたところ、他の翻訳の方が読みやすいらしい。光文社新訳文庫ならスイスイいけるという口コミも発見した。
正直、迷った。タイムリミットを考えると10日で読み切る必要があるので、少しでも可能性を高めておきたかった。でも、ここで新しい翻訳に手を出してしまったら、すべてが台無しになってしまいそうだった。
とはいえ、このまま読み始めても、元の木阿弥で挫折するのは目に見えている。なにかしらの工夫は欠かせない。
こういうとき、役に立つのが文芸映画。それもソ連製の作品は社会主義国家の威信がかかっているので、やたらと原作に忠実なのが常である。
探したところ、求めていた通りのものがすぐに見つかった。上映時間は422分と書いてある。驚異の7時間超! 故に値段もそれなりで、普段だったら、手が出ない。
しかし、今回は普段じゃない。なにせ、この人災では読み切れないと思っていた『戦争と平和』を読み切るつもりなんだから。そのために仕事も調整に調整を重ね、10日間、ひたすら読書ができる環境を整えた。多少の出費は必要経費と捉えなくては。
というわけで、27時間の映画を見ながら、2,400頁の小説を読み続ける生活が始まった。
結論、この作戦は完璧だった。文章だけだとなにが起きているのか不明な場面に入り込むたび、映像で確認ができるので、なるほど、そうなっているのかと合点がいった。まるでスポーツの審判だった。映画は映画で尺の都合から重要なシーンを省略していたりするので、ストーリーがつながらなくなるたび、原作を丁寧にチェックした。
この面倒くさい作業を地道にこなしたことで、信じられないほど『戦争と平和』の世界に入っていくことができた。物語は主にナポレオンのロシア遠征がなんだったのか、その時代に生きた人々を描くことで展開していく。夜、読みながら寝落ちをすると夢の中で19世紀初頭のモスクワにわたしはいるなど、もはや現実を失うレベルでどっぷり浸かり切っていた。
いや、実際、『戦争と平和』はフィクションを超えて、現実そのものなんだと思う。表向き、紙に印刷されているのは文字の羅列に過ぎないが、それを読み、意味を頭で咀嚼した瞬間、目の前に19世紀初頭のロシアが立ち上がってくる。
そういう意味ではトルストイはこの世の出来事は情報に圧縮可能であり、すべては一定の法則に基づいていると考え、実践しているかのようである。科学的な視点であり、作中、そのことも言及されていた。
言ってしまえば、人間の自分ではどうにもならない大きな流れによって引き起こされるものが戦争であり、たしかにナポレオンは英雄として崇め奉られていたけれど、すべての責任を背負わせられるほど物事は単純じゃないというのが『戦争と平和』のテーマのひとつであった。誰も殺し合いたくなんてないけれど、それぞれが自らの立場を守ろうと動いてくことで、大衆として凄惨な争いに突き進んでしまう皮肉が描かれていた。そして、自分のせいだと思いたくないから、ナポレオンが悪いと責任を転嫁したくなる様も。
これはなんだか真実らしい。エミール・ゾラが『居酒屋』などで確立させた自然主義の観点に立てば、おそらく、そういう結論に辿り着くのだろう。個人の思惑なんて、社会という大きな因果律の前では無力なんだと明らかにするところから、近代文学は科学的な視点を手に入れた。『居酒屋』の働き者なおかみさんが不幸に死んでいくのは、本人の努力不足や信心不足なんて関係なく、社会保障の欠如と氾濫するアルコールのせいであり、国が取り組めば解決できる問題なのだから。
ただ、それだと人間の意志というものが否定されてしまうと考えたところにトルストイの新しさがある。
自然主義が示すようなどうにもならなさで戦争が起きるのかもしれないが、同時に、我々は自由に生きているもいるわけで、この矛盾はなぜ生じるのか? そこにトルストイは興味を抱き、かつ、この疑問を解消することが人類のためになると本気で考えているようだった。
そのため、『戦争と平和』の中では小説の合間にちょくちょく作者であるトルストイ自身の言葉が挿入され、自然主義を打破しようという試みが繰り返される。全体の最終章、エピローグ第2篇に至ってはすべてがトルストイの考察になっていて、なぜ、こんなにも壮大な小説を書かなければいけなかったのか、惜しまない種明かしに心が震えた。
さらに『戦争と平和』が完結する前年、読者の疑問に答えるため雑誌に掲載したコメントで、トルストイは秀逸なまとめを行っている。
要するに、わたしたちは自由なのだけど、他者と関わることでその自由が制御されていくというのだ。これだけ言ったら当たり前のように感じるけれど、それが当たり前の範囲を超えて適応できるものだということを示すため、『戦争と平和』は書かれている。
なにせ、500人を超える人物が登場し、貴族を中心としつつも農奴たちの生活も描かれ、ロシア軍とフランス軍、両方の立場を平等に記述するような大作であるから、たしかに、これを読めば各々の自由が他者との関わりによって、いかに歪んでいくのか思い知らされる。それはいわゆる権力者も例外でない。誰一人、自由になんて生きていない。ただ、一人一人にフォーカスを当てたとき、みなが自由であろうとはしているわけで、マクロとマクロで世界のあり方が様変わりする面白さこそ、トルストイの魅力に違いない。
そして、人間は自由について重なり合った状態で生きているわけだから、自由なんてないと諦めるのではなく、それでも自由を求めるべきというメッセージが浮き上がってもくる。
映画版『戦争と平和』のはじめと終わりにモノローグで語られるフレーズがある。それは原作のエピローグ第1篇に出てくるセリフで、主要人物の一人・ピエールが発するものである。
そう。じつに単純である。人は誰しも自らの幸せを望む自由があるけれど、それによって悪い人間たちが力を合わせるようになったとき、そうじゃない正直な人たちの生活は脅かされてしまう。だから、正直な人たちは悪い人間たちの思惑通りにことが進まないように力を合わせる必要があるのだ、と。
まさにその通り。そうあるべきだとみんなが頷くところだろう。
でも、ここで考えなくてはいけないことがある。果たして、自分が悪い人間であると思っている人間なんているのだろうか? もっと言えば、正直な人たちなんているのだろうか?
この観点からトルストイを理想主義者と否定し、真っ向から勝負を挑んだのがニーチェとドストエフスキーらしい。
その辺の経緯はなんとなく知ってはいたけれど、実際に『戦争と平和』を読んでみて、なるほどなぁと会得するところがあった。こうなるとさらにトルストイのことが知りたくなって、いまは『アンナ・カレーニナ』を読み始めている。
この人生ではトルストイと縁がないと思っていたのに、1ヶ月で代表的な大作をふたつ、読破しようとしているのだから何が起こるかわからない。
トルストイとドストエフスキーについて話をするのは一週間後。それまでにドストエフスキーの本もいくつか読んでおきたいし、たぶん、計算したら時間が足りないと判明しそう。それでも、やってやるんだ! というところに人間の自由意志があるわけで、のんびり挑戦しようと思う。
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