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【読書コラム】パパ活の匂い漂う年の差婚 - 『小林一茶 時代を詠んだ俳諧師』青木美智男(著)

 最近、日本人と生き物の関係について調べている。先日は徳川綱吉の生類憐れみの令が本当に目指していたものはなんだったのか、知るために新書を一冊読んでみた。

 その中で人間と生き物の距離感が現代とはけっこう違うことがわかってきた。

 例えば、綱吉の時代の犬にしても、ペットのように飼われているのはごく一部。ほとんどは野良犬で子どもや老人など弱い立場にある人間をけっこう襲っていたらしい。そうなると悪さをした犬を懲らしめるために殺してしまうことも多々あったらしく、その死体が腐乱することで病気を媒介していたんだとか。この衛生的な問題を解決すべく、犬の生活を管理しようという発想から生類憐れみの令は生まれたという説もあるんだとか。

 結果的に社会福祉推進の動きは武士の特権を剥奪することにつながったので、綱吉は諸大名から多くの反感を買った。政治的にはうまく立ち回れなかったので、後々まで「犬公方」と揶揄もされてきた。でも、いま振り返ってみれば、評価できる点もあるように感じる。

 そんなわけで、やっぱり、調べてみると面白いことがわかるんだなぁとわたしは味を占めた。他にも注目すべき人物がいたら、一冊、本を読んでみるのがよさそうだ。なんて、いろいろ検討してみた。

 で、頭に浮かんだのは小林一茶。18世紀後半から19世紀のはじめにかけて活躍した俳人で、「一茶調」と呼ばれるわかりやすさが特徴である。

 その代表的な句を並べてみると、

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
痩蛙 まけるな一茶 是にあり
やれ打つな 蝿が手をすり 足をする
足元へ いつ来たりしよ かたつむり
かげろうに ぐいぐい猫の いびきかな

 など、生き物が頻繁に登場する。しかも、芭蕉みたいに侘び寂びを伝えるための道具として生き物を使うのではなく、それ自体にフォーカスを当てているところに独自性がある。

 なんとなく、一茶のビジュアルからして、仏教の思想とかが関係しているのかなぁ、なんて想像してきた。

一茶肖像

 ただ、綱吉は儒教の教えに基づいて生類憐れみの令を施行するに至ったらしいと最近知ったこともあり、本当のところはどうなのか、調べてみないとわからない。

 で、なんとなく直感でビビッときた本を購入。『小林一茶 時代を詠んだ俳諧師』という新書をゲットして、とりあえず読んでみた。

 予想通り、「そうだったのか!」の連続だった。

 ざっくり言うと、わたしが漠然と抱いていた小林一茶の慈愛に満ちたイメージというのは、明治時代に正岡子規が作ったものなんだとか。

 具体的には一茶の評伝第一号とされる『俳人一茶』という特集の中で、正岡子規は以下のように記している。

 彼の句に小児の可憐なる有様を述べるもの極めて多し。只俳句として見るべきもの少きは、情勝つて筆先に随はざりしか。小児の事とし云へば、情激し心躍りて、句作にも推敲を費さざりしものと覚ゆ。其慈愛心は動物にも及べり。彼は雀の子の覚束なげに飛ぶを見ても、蛍の人に取られんとするを見ても、猶心を動かせり。

青木美智男『小林一茶 時代を詠んだ俳諧師』11頁

 もちろん、慈愛に満ちた句はたくさん残っている。でも、そのほとんどが50代以降、晩年にかけての作品なので、それだけでは小林一茶の全容を理解することができないとらしい。

 たしかに、この本の中で紹介されている句には、

松かげに 寝てくふ 六十余州哉

 と、松かげ=松平=徳川幕府を匂わせるものがある。この前書きには国家安全と添えてあるので意図は明らか。他にも、

君が世や 蛇に住替る 蓮の花
是からは 大日本と 柳哉
神国の 松をいとなめ おろしや舟

 など、保守的な俳句をたくさん詠んでいる。最後な「おろしや舟」とはロシアの船のことで、江戸も後期になり外国からの圧力が高まっていたことがナショナリズムの高揚につながっていたのだろう。

 そういう意味で、俳人として現役だった頃の一茶はバリバリ時代の空気を反映させていたわけで、なぜ、晩年になって慈愛に満ち始めたのかが自然と気になってくる。

 もちろん、歳をとったからの一言で説明がつきそうであるけれど、著者はその生い立ちと晩年の暮らしが関係しているのではないかと推測していた。

 信濃の百姓の長男として生まれた一茶だったが、早くに母親を亡くしている。祖母に育てられるも、8歳のときに父親が再婚。この継母と相性が悪く、不遇な少年時代を送る。

 14歳のとき、祖母が他界。これによって仲裁役がいなくなったことで、継母との関係はさらに悪化。居場所を失う。そして、逃げるように江戸奉公に出たまま、ほとんど帰ることはなかった。

 一茶はこのときのことをこう記している。

住馴し伏家を掃き出されしは、十四の年にこそありしが、巣なし鳥のかなしみはただちに塒(ねぐら)に迷ひ、そこの軒下に露をしのぎ、かしこの家陰に霜をふせぎ

青木美智男『小林一茶 時代を詠んだ俳諧師』49頁

 住むあてもなく江戸に出て、日雇い労働で飢えをしのぎながら、毎日を生きていたのだろう。当時を振り返る文章は少ないけれど、メモ魔だった一茶は継母について「鬼ばば」と書いていることから、いかに恨んでいたかは想像に難くない。

 孤独で過酷な生活にどうして耐えられたのか。通説としてはその頃、奉公先で俳諧のいろはを教えてもらって、その世界でメキメキと頭角をあらわすことができたからだと言われている。

 やがて、弟子入りもして、29歳で俳号・一茶を名乗り始める。30歳で6年をかけて四国・西国へ行脚を決行。このとき上方俳壇の重鎮と交流を重ねたことで巨大な情報網を確立させることに成功。

 江戸に帰ってからは田舎者とバカにされつつ、全国の俳人たちと手紙のやりとりができる強みを活かし、存在感を増していく。東京にない資料を取り寄せて貸してあげたり、相撲の番付を模した誹諧士一覧を作成する際はその判定人として活躍した。

 とはいえ、俳句の世界でいかに力をつけようと、現実問題、生活が楽になるわけではなかった。39歳のとき、父親が亡くなったこともあり、最期は呑気な田舎暮らしがしたいと実家に帰る決意を固める。

 これに反発したのは例の継母。長年、この家を守ってきたというのに、いまさらバカ言ってんじゃないよ、とご近所さんと一緒に怒りまくった。

 ただ、小林一茶の「鬼ババ」に対する恨みは凄まじく、父親の遺書を根拠に12年間かけて自らの法的正当性を主張。見事に継母と弟たちを追い出してしまう。しかも、係争中の12年間分の家賃まで請求する徹底ぶり。なんというか、恐ろしい。

 結果、勝ったはいいけど、ご近所からは家族に酷いことをする冷血漢として嫌われてしまう。本人はそれでもいいと強がっていたが、本当は寂しかったのだろう。ずっと独身だったのに、突然、婚活に邁進し始める。

 やがて、52歳で28歳の菊女と結婚。その喜びをこんな句を詠み表現している。

こんな身も 拾ふ神ありて 花の春

 日記には「菊女帰、夜五交」と中高生並みのセックス回数を記録し、精力剤を手に入れるため東奔西走した様子が記録されている。

 そこには早く子どもを持たなきゃいけないという焦りもあったのだろう。ただ、残念なことに生まれてくる子どもは幼くして次々亡くなってしまうのだった。

 菊女との間には5人の子どもをもうけるも、4人が生まれて1年前後で命を落としている。その上、妻の菊女も37歳で死んでしまう。

 その後、二度ほど結婚するも、ほとんど介護されているに等しい状態だったとか。こういう絶望に絶望を重ねる中で、弱者に対する慈愛の心が芽生えていったのかもしれない。

 たぶん、一茶は誰かに優しくしてもらいたかったのだ。その理想をまずは子どもや生き物に向けて発露したから、正岡子規が評価した情に激しく、心躍る作品をたくさん生み出すことができたのではないか。

 特に50歳を過ぎてから、なにかを取り戻すかのように愛を求める姿は凄まじい。いまで言う「パパ活」のようなものを感じた。

 客観的にはそんなバカなと思ってしまうけれど、本人の送ってきた人生の文脈においては避けられない衝動があるのかもしれない。

 菊女はそれを受け止めることができなかったし、後妻となる2人にとってもしんどいものがあったはず。おぢの欲求はそう簡単なものではないのだろう。

 漠然と、援助交際とパパ活の違いはどこにあるのだろうと考えてはいたが、なんとなく、ヒントをもらえたような気がした。前者は宮台真司さんが分析していたように少女たちの欲求不満に力点が置かれていたけれど、後者はおぢたちの欲求不満に力点があるのかも。

 まさか、小林一茶について調べて、こんなことを考えるとは思ってもみなかった。読書って面白い。




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