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【読書コラム】論破の時代を生き抜くための聞く力 - 『まずは「聞く」からはじめよう: 対話のためのディベート・レッスン』ボー・ソ(著), 川添節子(訳)

 YouTubeを見ていたら、PIVOTの動画がおすすめで流れてきた。ディベートのチャンピオンが論破よりも相手の話を聞くことが大事だと言っていた。

 意外だった。なんなら、ディベートこそ論破を目的にしているものだと思っていた。

 その辺の認識を調整したくて、動画に出ていたボー・ソさんの書籍『まずは「聞く」からはじめよう: 対話のためのディベート・レッスン』を買ってみた。

 タイトルと言い、表紙のデザインと言い、ハウツー本なのだと予想していた。別にそういうやつを読みたいわけではないんだけどなぁ。そんなことを考えながら、ページをめくって驚いた。ちゃんと自伝版になっているのだ。

 幼い頃、両親に連れられる形で韓国からオーストラリアに引っ越したボー・ソ。彼は英語で話をしたくても、まわりの子どもたちに茶々を入れられてしまうので、どんどん寡黙になっていく。

 そんなある日、ディベートの練習に誘われる。行ってみると、そこでは参加者それぞれが誰にも邪魔されることなく、自分の意見を述べる時間が約束されていた。

 これなら自分も英語でしゃべることができそうだ。

 勇気を持って、ディベートの世界に飛び込んだ彼はやがて世界大会で優勝したら、ハーバード大学に進学したり、その道で華やかなキャリアを実現させていく。

 ちゃんと物語に満ちまくっていた。

 ボー・ソは1994年産まれらしく、1993年産まれのわたしの知っているエピソードがたくさん出てきて面白かった。特にトランプが大統領になったとき、ディベートが相手を論破する道具に使われてしまった絶望が鮮やかに描かれていた。

 その中で、なぜ、人間は論理的思考をするのかについて、そもそもを考えるくだりがあった。当然、それは真実を求めるためであり、議論をぶつけ合うのはより正しい答えに辿り着こうとする弁証法的な目的に基づくものと我々は信じている。だが、そうじゃないとする説もあるようだ。

二〇一〇年、認知科学者のヒューゴ・メルシエとダン・スペルベルは、「なぜ人間は論理的に考えるのか」という疑問に意外な答えを出して論争を引き起こした。論理的思考が進化したのは、人間が真実を識別してより良い判断を下せるようにするためではなく、議論に勝つためだというのだ。「(論理的思考は)純粋に社会的な現象だった。その進化は私たちが他人を説得するときの助けとなり、またその進化のおかげで私たちは他人に説得されるときに気をつけるようになった」とメルシエは≪ニューヨークタイムズ≫に語った。この考え方にたてば、確証バイアスなどの論理的思考の欠陥なバグではなく特徴ということになる。論理的思考は私たちを真実に導いてはくれないかもしれないが、議論を後押ししてくれる。

『まずは「聞く」からはじめよう: 対話のためのディベート・レッスン』306頁

 実は論理的思考は議論で勝つために存在し、そもそも議論は相手を論破して快感を得るためのものかもしれないのだ。

 これは少し大胆過ぎる説なので、賛否両論を呼んだようだけど、誰かを論破してニヤニヤ怪しそうにしている人たちを見ると、あながち、ない話ではないと思われてくる。

 仮にそれが人間の本能だったとして、わたしはそんな状態を仕方ないさと受け流すことはできない。だって、屁理屈を早口でまくし立てることがよしとされ、物事をじっくり考え、その場で当意即妙な反応ができない人たちの発言権が奪われる社会なんて、地獄以外のなにものでもないんだもの。

 いまの時代、もはや本当のことを言わなくてもよくなってしまった。嘘でもなんでも、興味を惹く言葉を選べば、ビュー数は増え、再生数はまわり、広告収入やらなにやらで儲かってしまうから。誹謗中傷を重ねるだけで政治家にだってなれてしまう。気づけば、わざと間違えることにメリットが伴ってしまった。

 かつてはモラルが機能していたから、間違えは正さなきゃというインセンティブが働いた。常識がないと損をするという意識が共有されていた。ルールを守れないことは恥であり、そうならないように自然と頑張ってきた。

 ところが、価値観が根本から変わってしまったせいで、モラルも常識もルールも関係なくなって、恥知らずとして振る舞った方が得するようになってしまった。むしろ、面倒臭い段取りを踏めば踏むほどまわりに遅れてしまうので、社会の変化に置いていかれるリスクがある。

 そのため、間違ったことを主張している人に対して、正論が通用しなくなってしまった。どこがどう間違っているのか論理的に指摘をしたとして、わざと間違えている人たちが考えを修正するはずがない。なにせ間違えたくて間違えているのだから。

 ぶっちゃけ、打つ手なしにもほどがある。論破の時代に言葉はすっかり無力と化してしまった。

 しかし、ボー・ソはそこにひとつの解決策を提示する。それこそが「聞く力」であり、まずは「聞く」から始めようという邦題につながってくる。

 本書でディベート・テクニックがいくつも紹介されているが、その中でも、あえて相手の意見を補強してあげるというものが興味深かった。敵に塩を送る作戦と言うべき内容で、一見すると不合理な作戦である。ただ、それが有効な理由がちゃんと説明されていた。

七年生のときのコーチのサイモンからは、単に記録するのではなく、相手の議論に反応するまえに、その議論を強化するよう教わった。もし相手が具体的例や肝心な理由をあげていなければ、それを考えて言うのである。「相手チームはこういうことを言いたかったのではないでしょうか……」。ぼくたちはそれではオウンゴールではないかと思った。だが、サイモンは可能なかぎりハードルを上げた議論に対抗すれば、観客を説得できる可能性が高まり、場合によっては相手チームまで納得させられるだろうと言った。ディベートのレベルを底上げし、相手チームの議論を真剣にうけとめることが求められた。良いスピーカーは相手のミスをほくそ笑むが、偉大なディベーターは相手のミスをまず修正する。

『まずは「聞く」からはじめよう: 対話のためのディベート・レッスン』113-114頁

 勝てばいいっていうのであれば、たしかに相手のミスを探して、重箱の隅を突くように人格攻撃スレスレの追及をすれば手っ取り早いのかも。ただ、そのやり方では議論の質は下がってしまう。せっかく対話をするのなら、クオリティの高い結論に至りたいではないか。

 そういう意味で、互いに相手のミスには助け舟を出し、相手のナイスな発言にはエールを送り、ポジティブなキャッチボールをすることができたら、議論は面白くなるに決まっている。そして、そういう議論であれば、わたしたちも参加したくなる。

 テレビやネットの討論番組を見ても、みんな、自分の意見をアピールすることに一生懸命。せっかく、その場に集まった他の人たちの意見に耳を傾けやしない。議題とは関係のないクイズみたいな質問をして、相手がそれに答えられなければ、論破したと宣言するだけ。これじゃあ、ちょっとあんまりだよね。

 いま、わたしたちに求められているのは他人の話を聞いてみること。わざと間違ったことを言っている相手に対しても、あえて耳を傾けてみる。で、あえて相手の主張を補強してみる。

 納得のいかない思想を飲み込む行為なので、無論、抵抗はあるだろう。それでも、あえて我慢をすることで、相手の主張はどんどん発展。やがて、論理矛盾を引き起こす。このとき、我々は相手の立場で残念がればいいのだ。

「いい考え方だったけど、最終的にはうまくいかないね」

 対立したまま否定をしても、相手は絶対に納得しない。大切なのは、まず信頼を獲得し、仲間として間違った意見を間違っていると一緒に認められる環境を作ること。そのために必要なプロセスが「聞く」なのである。

 みんな、自分の意見を聞いてほしい。凄いことを考えているんだねと褒めてもらいたい。世の中はあまりに忙し過ぎて、そのことが忘れ去られている。結果、話を聞いてもらえない人々はストレスを溜め、大きな爆発を引き起こす。

 人の話を聞くのは大変だけど、その手間を惜しんだこで分断が広がっているのだとすれば、あえて面倒臭いことをするだけの価値はあるだろう。

 さて、まずは家族の話を聞いてあげよう!




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