【読書コラム】武勇伝が作れない時代に、何者かになりたい若者は空回りするしかないんだぜ! - 『無敵の犬の夜』小泉綾子
大学時代の友だちとやっている月一のzoom読書会で小泉綾子さんの『無敵の犬の夜』を読んだ。これがべらぼうに面白かった。
北九州の田舎町に暮らす高校生の男の子が主人公。彼は幼い頃に母親の不注意から右手の指が欠損している。そのコンプレックスを教師にいじられ、不登校になるも、そんな状況に悶々と不満を感じている。
ある日、近所のファミレス・ジョイフルで「バリいけとる」先輩と出会い、チャゲアスみたいなノリでウザい教師をぶん殴り、学校から追い出すことに成功。主人公は先輩に心酔し、すっかり舎弟のようになってしまう。
やがて、橘さんが東京のラッパーと揉めていると知ったとき、主人公は鉄砲玉になる覚悟を決め、単身、上京するのであるが……。『仁義なき戦い』のような熱い展開が気持ちよかった。
ただ、それだけ聞くとよくある話に思えてしまうかも。不良ものの定番って感じで、いまさら読んでもねぇって。でもね、この本はそう単純じゃないから半端ない。というのも、諸々、嘘くさいのだ。
例えば、自分たちが教師を懲らしめたつもりになっていたけれど、なんだか他にも事情があったらしいとわかってくる。先輩は東京でトラブルに巻き込まれているはずだけど、いざ行ってみると、そうでもなさそう。そもそも、先輩を慕っているつもりが、自分がどこまで本気なのかもけっこう怪しい。
読み進めるにつれて、主人公が止むに止まれず物語を突き進んでいるというよりも、退屈な日常から抜け出すために、わざわざ問題が起きそうな方向に進んでいるだけなんだと見えてくる。結果、一人称視点で語られてきた文章構造がビシッと効いてくる。
主人公は何者かになりたかったのだ。そうじゃないと、まわりのみんなに置いてけぼりを食らって、ひたすら寂しいだけだから。
先輩が東京に通い始め、自分にかまってくれなくなったとき、幼馴染のヤマや妹の美咲、母親が離れていった過去を思い出し、こんな風に独白している。
置き去りにされない人間になりたいと主人公は願っている。なので、やりたいことがあるわけじゃないけど、なにかしらやらなきゃいけないと褐求している。派手な成果をあげれば、何者かとして一目置いてもらえるはずと信じて。
それで先輩とつるんで、武勇伝を作って、何者かになったと思っていたのに先輩は東京に夢中で。また誰にも相手をしてもらえない日々に戻ってしまって。だったらもっと大きなことをしてやるよって上京し、死ぬ気で頑張ったのにすべては空回り。
一応、先輩からは電話で「いや、お前はもう十分武勇伝作ったし……」と言ってもらえたけど、もはや先輩だって大した人間じゃないってわかっているから、そんな言葉は響かなくって。ひたすら惨めな気持ちで帰りの高速バスに乗り込むしかないのだ。
むかしと違って、いまや、武勇伝を作るのは難しい。グローバリズムとインターネットで世界はつながり、ファクトチェックが推奨される世の中で、盛った話に対する風当たりは年々強くなっている。自分の嘘がバレるのはもちろん、凄いと尊敬していた人物の嘘も簡単に露呈する。
そんな時代でも、何者かになりたいと模索している若者はいるわけで、この無理ゲーに挑む果敢な姿を描いた点に『無敵の犬の夜』の凄みを感じた。
特に、帰りのバスがトイレ休憩でパーキングエリアに入り、自販機で買ったコーラを飲んでいるときの嘆きは沁みる。
なるほど、こうやって、若者は自分が何者かになれやしないのだと悟り、成長していくのだなぁとしみじみ読んでいたのだが、この直後、とんでもない急展開があるので驚いた。かつ、そうそう、そうこなくっちゃと文学的な興奮を覚えた!
これについてはぜひ実際に読んでほしい。めちゃくちゃで、はちゃめちゃで、なんじゃそりゃって話なんだけど、抜群に面白いし、ラストは三島由紀夫の『金閣寺』の終わりを彷彿とさせる希望に満ちている。
zoom読書会では、本作が文藝賞を受賞した際の審査員のコメントを共有してもらった。町田康・角田光代・島田理生・穂村弘の4人全員が近い角度から称賛する中、この最後の急展開について、もっと詳しく書いてほしいという意見が目立った。つまり、それだけ魅力的ということだろう。
たしかに、この異常な事件によって主人公は大きく目覚める。また、東京に拒否され、自分を縛る北九州の田舎町に戻らなきゃいけない運命から抜け出す契機を得るに至る。いわゆる文学性の高さがこのエピソードにあふれているのは間違いない。故に、これを深掘りすることの妥当性はよくわかる。
しかし、それが困難な時代だからこそ、主人公は迷い苦しみ、ようやくここに辿り着いたわけで、これまでの流れを踏まえれば、やはり、今回はこういう風に終わっていくのが適切であるとわたしには思えた。
そういう意味では小泉綾子さんが次回以降、どのようにこの先を描いていくのか、興味が湧いた。形は変われど、そのエッセンスが込められていくに違いないから。
ちなみに、先月、同じzoom読書会で大田ステファニー歓人さんの『ミドリイセキ』を読んだばかりだったので、「不良もの」というくくりで比較する話が盛り上がった。
『ミドリイセキ』が東京という土地に深く根付いているとしたら、『無敵の犬の夜』は北九州と東京の違いにフォーカスが当てられていた。そして、この両者が同じように現代的であることを我々はどう解釈すればいいのか?
近年、都市部と地方の感覚が広がりつつあることが問題視されている。日本では政党支持率の差として、未だ顕在化はしていないけれど、アメリカのトランプ支持率が都市部と内陸部で異なることはよく知られている。また、先日行われた欧州議会選挙においても、その違いは歴然となった。
交通網や通信網が整備されたことで、都市部と地方の実質的な距離は縮まっているはずなのに、なぜ、こうも価値観が異なってしまうのか。むしろ、そのせいで分断が広がっているのではあるまいか。
そのことを考えさせる描写が『無敵の犬の夜』にはいくつかあった。おばあちゃんに育てられている主人公にとって、東京は遠い存在だけど、先輩や恋人にとってはそんなことなくて、会話の端々に東京が出てくる。一見すると小さな差だけど、この積み重ねが大きなズレへとつながっているのかもしれない。
アクセスが可能になったからって、全員が全員、アクセスできるわけじゃない。お金も必要だし、それを楽しむためには文化資本も求められる。気づけば、同じ田舎町に住んでいるはずが、東京へのコミット具合でわかり合えなくなっていく。
かつて、上京はビッグなイベントだった。大学進学や就職を機に、一回、地元を捨てるような儀式めいたところがあった。そして、そこまでしなくてはいけないからこそ、上京の特殊性が保たれたい。
ところが、いまや、YouTubeやInstagram、TikTokなどでバズれば地元にいたまま東京で有名になることが可能になってしまった。日常的に東京の情報を得ることができ、ネット通販で東京のファッションを入手することも簡単だ。こうなってしまうと、もはや、東京は特殊なものではなくて、手に入れようと思うか否か、そのために時間とお金を使うか否か、選択の問題になってしまう。
そのため、東京にコミットする選択をしている先輩や恋人に対し、『無敵の犬の夜』の主人公はそれができない自分を惨めと感じ、イライラを募らせていく。そして、それは東京に対する複雑な感情として表れる。
とはいえ、先輩にしても、恋人にしても、何者かになりたくて地元を抜け出したいと考えているのは一緒なので、本当は主人公と共感できるところは多く、なぜ、ぶつかり合ってしまうのだろう。そのどうしようもなさに光を当てている点も素晴らしかった。
ほんと、何者かになろうなんて思わずに済んだら、楽なんだけどね。でも、思っちゃうからしょうがない。空回りを続けよう!
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