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【読書コラム】誰も自分が差別をしているとは思っていないから - 『差別はたいてい悪意のない人がする』キム・ジヘ(著), 尹怡景(訳)

 差別がいけないことであるとみんな知っている。なのに差別がなくならないのはなぜなのだろう? たぶん、この答えは想像以上にシンプルかつ意外なものである。というのも、誰も自分が差別をしているとは思っていないだけなのだ。

「わたしは〇〇を差別する」のような一人称+能動態の形で差別が動詞として使われることはほとんどない。調べた限り、見つけられなかった。「君の言動は差別的だ!」だったり、「Aさんが人種差別発言をした」だったり、「Bさんに性差別の疑いあり」だったり、多くの場合、二人称+能動態か三人称+受動態で差別は動詞化されている。

 つまり、差別というのは他人に指摘されることでしか顕然しない概念なのである。

 故に、差別を指摘された人は必ず誤解なんだと釈明する。これは差別じゃなくて区別なんだと訴える。敏感に捉え過ぎなんだと開き直り、なんなら、注意してきた相手にヘイトを高めることもある。

 客観的に眺めていると無様な振る舞いに見えてしまうが、いざ、自分の発言が差別と指摘されたらどうだろう? 少なくともわたしは誤解を招いてしまって申し訳ないと謝ってしまう気がする。なにせ、本当に差別する意図なんてなかったのだから。

 例えば、複数のルーツを持っている人に対して、「ハーフは可愛いね」「ハーフはカッコいいね」と言ってしまう人がいたとして、おそらく、当人は褒めるつもりが100%で、人種差別をしている認識は微塵もない。だから、「ハーフ」って言葉に不快感を示されたら、必要以上に意図を説明したくなるだろう。

 他にも「俺は学歴がないから」と四年制大学を卒業しているのに出身校が有名大学じゃないという理由で自虐的になる人がいる。いわゆるFラン卒というやつで、自分を下げているんだから構わないように見えるけれど、実際は同じ大学を卒業した他人まで一緒に貶めているので差別的と指摘される可能性はある。

 また、ある属性の人に嫌な思いをされた際、その個人に怒りを向けるのではなく、我々はその属性に怒りを向けてしまいがち。これを、ステレオタイプという。たまたま恋人が嫌なやつだっただけで、「男って〇〇」とか「女って〇〇」とか、主語を大きく愚痴ってしまう。たまたま大きな事件の犯人が外国人だっただけで、「〇〇人はクズばっか」と不満を口にしてしまう。

 こんな風に褒めたり、自虐だったり、ステレオタイプだったり、差別とは異なる目的で発せられた言葉が他人の目に映ったとき、しばしば差別的と評価される。差別を自覚するというのはとても難しいことなのである。

 言われてみれば、当たり前だけど、差別はいけないというイメージから発言者の責任追求ばかり考えてきた現代社会において、この視点は長らく見落とされてきた。韓国・江陵原州大学校多文化学科教授のキム・ジヘはその点に注目し、『差別はたいてい悪意のない人がする』を執筆し、一躍、ベストセラーとなった。

 あるとき、キム・ジヘが差別をする側の無自覚性に気がついた。きっかけはヘイト表現に関するシンポジウムに参加した際、「決定障害」という言葉を自虐的に使ったところ、参加者から「どうして決定障害という言葉を使ったのですか?」と質問されたことによる。

 日本では聞き慣れない「決定障害」という言葉。調べると韓国の造語らしく、결정장애(キョルチョンチャンエ)と記述し、優柔不断を意味すると出てくる。

 二つの単語の組み合わせで、결정は決定、장애は障害を意味するので、直訳で「決定障害」となるらしい。スラングとして気楽に使われているようだけど、장애は身体障害などを表すときにも使う言葉なので、そう聞くと、たしかに公的な場所で使うには適さないように感じられる。

 日本語で言えば、「コミュ障」みたいな感じだろうか。わたしの世代だと日常会話で普通に使うし、そこに悪意が込められていないのは当たり前のようになっている。個人的に、公的な場所でもアイスブレイクとして使う分には問題がないと思っている。

 なにせ、固い言葉ばかりだと話がつまらなくなり、みんな退屈そうにし始めるので、時々、あえてカジュアルな言葉を入れたくなるのだ。というか、正直、わたしは「コミュ障」という言葉を公的な場所でも何度か使ったことがある。

 おそらく、キム・ジヘもそんなノリで「決定障害」という言葉を使ったのだろう。シンポジウムで討論する中で、「どうすることもできない状況のもとでも、われわれはともに決断を下すべきという話をするなかで」使ったと書いてあった。当然、そこに差別的な意図はなかったはずだ。

 そのため、注意を孕んだ質問をされたとき、恥ずかしさを覚えると同時に「その言葉がどうしたっていうの? どこが問題なの」と疑問も湧いたという。

 で、どこが問題なのかをたしかめるため、障害者の人権運動をしている活動家に電話をかけ、いろいろと聞いてみたらしい。すると、日常会話で「障害」という単語がネガティブに使われることで、「障害者」と呼ばれる人たちはネガティブなレッテルを貼られている感覚になっていると教えられた。

(そんなことを書きながら、わたしは「障害者」という表記を「障がい者」に直した方がいいんじゃないかなぁと悩んでいる。本文では「障害者」となっていたので準じているけど、果たして、それでいいのか不安はある)

 人権の専門家として、障害者福祉についても学んできたキム・ジヘにとって、これは衝撃的なことだったらしい。まさか自分が障害者を差別する側になるなんて、一ミリも考えていなかったから。

 ただ、たしかに、彼女自身がこれまでの人生で感じてきた人種差別や性差別、職業差別を振り返ったとき、相手はまったくの無自覚であり、こちらが声を上げても、「なんでそんなことで怒ってるの?」と返されてしまうのが常だった。

 差別というのは主観的に行われる行為ではなく、受け手が不快に感じることで成立する。そのため、差別する側にはたいてい悪意がない。

(もちろん差別的な表現で耳目を集め、政治的・経済的に利用する人もいるので、すべての差別に悪意がないとは言えないが、それはまた別の問題になってくる)

 同時に、なにが差別か一定でない以上、突然、ある発言が自分に対して差別的と感じられるようになったりもするだろう。

 つまり、この世界では誰もが差別される側になり得るし、差別する側にもなり得るというわけなのだ。

 そのことに興味を持ったキム・ジヘは善良な差別主義者がいかにして生まれ、差別がどのように不可視化されていくかの研究を始める。そして、わたしたちはこれから差別といかにして向き合っていくべきか、未来について考える。これらが一冊の本にまとまっているのが『差別はたいてい悪意のない人がする』なのである。

 読みながら、ハッとさせられる内容ばかりが並んでいた。

 特に、わたしが考えさせられたのは差別を法律で禁止することの難しさについてだ。そんなもの、差別はやめろの一言で終わりそうに感じるけれど、実際にルールを制定し、運用していくためにはなにが差別なのか定義する必要がある。そうなると二つの問題が出てくる。

 ひとつは定義から漏れた内容は差別じゃないことになってしまうこと。そこに書かれていない属性を攻撃することは違法ではないというお墨付きを与えてしまう恐れがある。

 もうひとつは法的に整備してほしくない勢力による差別助長が広がってしまうこと。例えば、宗教的な教えに基づいて特定の属性を攻撃している場合、それが禁止されることは信者にとって国家による宗教弾圧と感じられるだろう。そうなれば、なぜ自分たちはその属性を攻撃しているのか、論理的に説明するための社会運動を展開する。これによって、攻撃を正当化する人が現れ、差別が激しくなる恐れがある。

 このように差別をなくすための法律がむしろ差別被害の拡大につながる、皮肉な結果が待っているかもしれない。

 ひとえに差別がソリッドな概念ではなく、人間関係によって変化し続ける流動的な概念だからこそ、こういうものであると決められない性質を持っていることに起因している。住む場所が変われば、働く場所が変われば、一緒にいる相手が変われば、誰だって差別されるし、差別してしまう可能性がある。すべての人が無関係ではいられない故にこれが正解という価値観を用意することは不可能である。

 とはいえ、差別を放っておいていいわけもないので、わたしたちはどんなに面倒であっても、熟議を重ねて、差別を禁止する仕組みを作るための努力を続けなければいけない。

 そのためにはなにより、わたしたちは自分が差別をしない人間だという思い込みを捨てなければいけない。これはとても苦しいことだけど、常に差別をしている可能性があると織り込み生きていくことで、万が一、注意されたときに逆ギレをしないで済む。無理矢理、取り繕う必要がなくなる。いつかやらかしてしまうと思っていたけど、申し訳ないと素直に謝ることができる。

 同時に、わたしたちは差別されていると感じたら、我慢するのではなく声を上げていかなくてはいけない。現状は逆ギレされたり、取り繕われたり、さらに嫌な思いをするかもしれず、なかなか声を上げにくいけれど、もし、みんなが素直に謝り、言動をすぐに変えてくれる環境が整えば、そういう不安はなくなるはずだ。

 逆説的だけれど、絶対に許されない差別を人間失格の行為として捉えるのではなく、ありふれたミスなんだと認識を改めることで修正コストを減らせれば、やめる側も注意する側も負担が軽減するんじゃなかろうか。

 もちろん、このあり方が通用するのは差別の入り口に過ぎず、いま生活が脅かされるほど悩んでいる人たちを救うことはできないと承知している。ただ、そういう大きな問題に発展する前の段階で、わたしたち一人一人が小さな差別を刈り取っておくことにも意味がある。

 結局のところ、なにが差別になるのかわからない。あるシチュエーションで差別と指摘された言動も、TPO次第では素敵なジョークになり得る。そう考えると、やっぱり、差別と指摘されるということは言動自体が悪いというより、そこでその表現を選んでしまった自らの選択が失敗だったと解釈するのが妥当なのだろう。

 政治家の失言もたいていそうで、会合によっては鉄板ネタかもしれないが、ニュースになって報じられたら不適切なわけで、それは差別の意図があろうとなかろうと失敗をしているのである。

 だから、「誤解を招いた」と言いたくなるところをグッと堪えて、差別にあたるという認識が欠如していたことをストレートに謝らなくてはいけない。その上で、差別と感じる人たちの気持ちを知るために勉強をしなくてはいけない。そして、その成果を公表することが大事なんだと思う。そうじゃなければ、自分は差別主義者じゃないと思い込むために誤解する側が悪いというストーリーに固執してしまうから。そうなったら最後、本当の差別主義者に成り果てるだけである。

 してみれば、差別的な言動をした人を責め過ぎないというバランス感覚も求められている。ポリコレの基準で正解に外れていると再起不能まで叩いてしまえば、当然、反発を食らうだけである。結果、過ちを認められない人を増やすだけ。対立ばかりが生まれてしまう。

 誰だって差別をしてしまう。しかも、無自覚で。重要なのは自覚すること。自覚してもアイデンティティが崩壊しない優しい世界を作ること。

 わたしたちが生き難いのは完璧を求められているから。失敗しちゃいけない。嫌われちゃいけない。ダメ人間になってはいけない。そういうプレッシャーに、日々、晒されているせいで息苦しいのだ。

 でも、そんなのっておかしいよね。失敗しようと、嫌われようと、ダメ人間になろうと、そこから修正すればいいだけなんだもん。どうして修正を前提にしていないのだろう? 当たり前だけど、なんだって初めから上手にできるわけがない。練習して、挑戦して、失敗して、工夫して、また挑戦して。この繰り返しが人生じゃないか。

 差別も一緒。悪意がなくても、失敗をしてしまう。それをどう修正していくかが問われるべきで、批判をするにしても、その先を見通しておかなきゃいけない。

「わたしは差別をしていた」

 きっと過去形でなら、一人称+能動態の形で差別を動詞化できるはず。この構文が普及したとき、わたしたちはきっと自分が差別をしない人間なんて思わなくなっているだろう。

 そうなってようやく、

「わたしは差別をしない」

 と、否定文を作ることができる。差別をなくすというのはその考え方自体を消し去ることではなく、notで差別という動詞を打ち消すことでしか実現できない。

 可視化すること。まずはそこから始めよう。




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