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大晦日

とうとう、この記事を書くことになった。もともと、大晦日に、この記事を書こうと思っていた。色々な意味で、永遠に忘れ得ぬ出来事のことだ。

私の母は、ちょっと強烈な母だった。独善的なところもありつつではあるが、愛の人でもあった。その、母のことである。


母は、2年前の大晦日に、帰らぬ人となった。普通は、危篤となると、急いで準備をして、今際の際には立ち会うというのが常だが、私と兄は、むしろ、どこか、ほっとしつつ、母の最期を受け止めた。だが兄は、母の最後の瞬間を、病院で看取ってくれた。一方私は、行かなかった。

いくら、兄と相談の上とは言え、母は、恐らく、こんな私を許さないだろう。


母は、人生最後の4年間、寝たきりだった。ほとんど意識も無かった。感覚も、無かった……。はずだ。



母が倒れたのは、ソチ五輪の最中、区役所で手続き中に、受付のハイカウンターで仰向けに倒れた。救急車で病院に担ぎ込まれたものの、外傷性の脳内出血で大きな後遺症が残り、目を開けることだけは叶ったが、その後全く話すことも体を動かすこともできず、ほぼ、4年間植物状態で最期を迎えた。


脳は、一度圧迫されて極度に萎縮してしまうと、2度と回復しないダメージを負う。正常と圧滅は、不可逆なのである。

一度、主治医に聞いたことがある。

今の母に、感情や、判断力は、あるのでしょうか。

それは.....。患者さんにしか分からないことです。ですが、恐らくは、「意識」と私たちが認識しているまでの「意識」には、至らないのではないかと推察します。



母の救命緊急手術のトリガーを引いたのは、紛れもなく、私である。

仕事中、携帯電話に、コールがあった。

見慣れない電話番号。会議中でもあったので、2度は無視したが、立て続けに3度、かかってきた。

3度目に出ると、それはなんと、救急救命に担ぎ込まれた、母の緊急手術の執刀医だった。

いま、まさに、手術室に、いるという。

その朝、たまたま、私は、母に、電話をかけたのだ。その着信履歴で、親族だと断定されて、かかってきた電話だった。

状況を飲み込むのに少し時間がかかったが、驚愕と同時に、即断を迫られた。

医師が、私に言った。

本来ならば、承諾書を書いて頂くところですが、緊急を要するので、電話で判断させて頂きます。大きな後遺症が残る可能性は高いです。ただ、このまま放置すると、確実に、お母様は、死に至ります。

手術を承諾されますか、それとも、承諾されませんか。


私は、実は、ある理由から、ほんの一瞬、躊躇した。だが、承諾することを決断し、執刀して欲しい、母の命を、とにかく救って欲しいと、執刀医に懇願した。



母は、かなり独善的ではあったが、明るい人だった。尼崎出身のくせに、神戸に長く住んでいたことをいいことに、いつのまにか神戸出身と名乗っていた。言葉はキツく、性格もキツかった。だが同時に、過保護で偏愛だった。つまりは、強烈な個性の人だった。

母との思い出は、これまで、いくつか記事にした。楽しいことも、苦々しいことも、たくさんあるが、できるならば、いずれ、また、少しずつ、記事にしていこうと思っている。


私が、緊急手術の承諾をする際に、ほんの一瞬、躊躇させたのは、母の、日頃の言葉である。こんな言葉を、なぜだか、幾度となく、私は、聞かされていたのだ。

コジ、どんなことがあっても、延命治療だけは、せんといてな。

生きる屍だけは、ほんまに、ごめんやからな。



私は、結果的に、母に、4年間も、そういう状態を、強いたのである。


実は、母の亡くなる前の夏、不整脈が頻発しているというこで、ペースメーカーをつける手術をするかどうかの決断を、兄と私は、迫られた。

慎重に熟慮をし、何度も真剣に検討して、その手術をすることに、した。

年明けの1月20日に転院、手術の運びだった。

年末、出張の帰りに母を見舞った時、私は、寝ている母の足をさすりながら、そのことを私の口から改めて、伝えた。恐らく、聞こえていないし、理解できないはずだったが。

でも、私には、ぼんやりとした、ある予感があった。



大晦日の、紅白が始まる頃、兄から電話があった。

病院から、電話がかかってきた。かなり、脈が弱っているらしい。

何かあれば、俺がかけつける。また、連絡する。

コジ、お前は、待機しておけ。俺の家からは、近い。対処は、俺がする。だが、いざというときの準備だけは、しておけ。明日は、動いて欲しい。一緒に。

そしてその数時間後、紅白がフィナーレを迎えた時、再び、兄から連絡があった。

静かに、今、亡くなったよ……。


母は、これ以上の延命を拒絶し、大好きな紅白を見終わって、この世を後にした。


私には、その時、母の、声が聞こえたような気がしたのである。

冗談やないで。もう、ええわ。


母の、生前の言葉は、今も私の心の棘では、ある。だが、人は誰しも、心の中に永遠に抜けない棘を抱えたまま、笑って今日も過ごし、そして夜は、星を見上げている。そうやって、生きていくものなのだろう。


■追記■

今年、大晦日にまで、読んで頂き、支えて頂いて、心より感謝申し上げます。年末最後の記事が、こういう記事になったこと、申し訳なく思っております。ですが、もしも年末までnoteを続けていたら、大晦日は、このテーマと、心に決めておりました。人は、なんのために生きるのか。どういう心持ちで生きるべきか。正解なんて、ありません。
でも、私は、生き永らえるのだとすれば、やはり、愛を、与えるために、生きるべきなのではないかと思うのです。できる限りの愛を。出来るときに、できる限り、さしあげる。
明日から、新しい年になります。また来年、独り言日記を、書けるだけ、書いていこうかと思います。もしも、よろしければ、時々でいいですから、遊びにいらして頂けたら嬉しいです。くだらない、とるに足りない日常を、恐らく、また、書いていることでしょう。
日に新たに。また、日に新たに。心新たにしつつ、ゆっくり、ゆるりと、まいりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。







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