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幸せになれなさそうな人 | 足るを知る

自分の周りにどんな人が居るか考えてみる。けっこう頑張り屋さんが多い気がする。「類は友を呼ぶ」ということわざがあるが、それは僕が頑張り屋さんだからなのか、僕が頑張らなさ過ぎ屋さんでそういう人たちに囲まれ過ぎているのかもしれない。

ただし僕は頑張ることに対しての向き不向きを感じてしまうので、頑張っても出来ないことを頑張ってみたり、結果を出さない人が「結果より過程が大事」とか宣うのもどこか欺瞞に感じる。僕自身は無意識に損得勘定で動いている部分が少なからずある。でも、それを自覚している。要するに自分に得がある人とは関わりたいと思うが、無い人とは関わりたくもない。だから損切りも早いし、そういう意味では他人を大切にもしていない。誰彼構わず優しく出来るだけのキャパシティは僕には無い。むしろ自分が守りたいものを守るだけで精一杯だ。

世の中にはたくさんの考え方があるから、自分が正しいなんて全く考えたりはしないが、ほとんどの人間はそういうことを日常的に選択していて、しかも己が損得勘定で動いているということ自体に無自覚だ。普通に使い棄てている。僕の周りの人間もきっと僕が居なくなっても別の代わりがやって来てうまいこと事は回っていく。僕はそれに良くも悪くも何も感じない。自分だってそうだと思う。関わらなくなった人間と今更関係修復しようとしない。新しい人間関係を築いたほうが圧倒的に合理的だからだ。その新しい人間関係をこれからどうやって維持していくかを考えたほうがよっぽど良い。過去をいちいちほじくり返して、あの時はどうだったとか今回はこうだったとか。囚われる人は囚われておけばいい。すり減った人間関係を維持に値するならそうするのが最善だから。

僕にとって最後の最後まで自分を守ってくれたのは家族だけだった。それ以外の人間は信じるに値しなかった。みんな好き勝手に言いたいことを言うだけ言って、自分と関わりたいように関わってくるだけだった。家族の存在をありがたく想えるのは普通のことではないし、これが当たり前でもないことをたくさんの人を通して感じる。そして、その家族でさえも僕の疾患のことを完全には理解し得ないことも知っている。自分の私利私欲で動くのが人間なのだから他人を批判したりはしたくない。ただ、私利私欲で動いている癖に自分の思い通りにならないことを嘆くだけの人が嫌いだ。皆が皆、特別な何者かになんてなる必要なんて無い。そもそもがその程度の人間なのだから。自分が特別な人間でも選ばれた人間でもないことを認められた時にやっと幸せになれる気がする。

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