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小説シリーズ

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2022年3月の記事一覧

ランドマーク(132)

ランドマーク(132)

「海良って一人暮らしだっけ」

「今話すこと」

「見つかったら親に連絡されるぞ」

「別に」もともと、あってないようなものだ。とりわけ、父性に関しては。

「ていうかさ」かさ、と茂みがざわめく。この山にはざわめきがなかった。風もなければ、身じろぎをする木々すら斜面にはない。生きているわたしたちは揺れ動く。心臓の鼓動は、空気を震わせてしまうのだ。満足に会話も交わすこともできないこの状況に、苛立ちが

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ランドマーク(131)

ランドマーク(131)

 舘林の呼吸は落ち着いていた。Tシャツ、ジーンズ、スニーカー。自転車を漕いできたわたしですら、汗にまみれているというのに。どうしてあからさまな嘘を吐くのだろう。

 わたしは自転車を木陰に隠すことにした。これで見つかったのなら仕方ない。それよりも、早く近付きたかった。登山口には数人の調査会らしき人影があった。「委員会」、父の来ていた制服は確か濃紺だったはずだ。彼らは真夏にも関わらず、真っ黒の作業服

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ランドマーク(130)

ランドマーク(130)

 上り坂も下り坂もない道をおよそ一時間も走れば、登山口に着いた。登ってから一月も経たないうちに、まさかもう一度、ここに来ることになるとは。わずかに緑を残した山は先月、梅雨真っ只中のあの日よりもずっと湿り気を帯びているように見えて、停滞した熱気に吸い込まれるような心地を覚えた。恐ろしいほど風のない日だった。

 自転車をどこに止めるべきか、迷った。いわゆるママチャリで山を登るわけにも行かない。だから

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ランドマーク(124)

ランドマーク(124)

「繋ぎ目はなるべく少ないのが理想なんだけどね。いくら『遊び』があったって、歪みの許容量を越えれば脱線事故に繋がる」

 わたしは空へと伸びてゆく鉄道のレールを思い浮かべた。わたしの生まれたこの街、この県にも、そんな話があった気がする。鉄道がリニアでもなく、ましてや電気でもなく、石炭を食べては煙を吐き出していた、それくらい昔の話。エレベータよりもいくらかロマンチックに思われる。

 先生は点線の横に

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ランドマーク(125)

ランドマーク(125)

「海良の、話を聞かせてくれ」

「『塔』の、ですか」

 ああ、と言いながら先生はホワイトボードを消し始める。話せるようなことはなにもなかった。両親のことを先生は知らない。担任にすら直接は伝えていないことだ。名字と父親の不在から勘の良い人間なら察することもあるだろうけど、この名前はありふれたものだ。うちのクラスに海良は三人もいる。

「分からないことが多すぎます」わたしはそれだけをぶっきらぼうに口

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ランドマーク(126)

ランドマーク(126)

「僕だって、立場上あまり大きな声では言えない。でも、だって、不思議には思わないか」

 初夏というには、その日は熱に満ち満ちてしまっていた。わたしは机の脚へ何の気なしに触れようとし、それからすぐに七月の終わりを知った。バーベキューができるほど熱されていたわけではなかった。ひりつくような感覚もなかった。そのぬるま湯のような暖かさこそが、わたしにとっては夏の象徴のように思われた。

「宇宙と軌道を縦方

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ランドマーク(127)

ランドマーク(127)

「今は委員会の代わりに事故調査会が活動を続けているけど、何をしているかは詳らかにされているわけではない」

「その調査会が、実質的に委員会と同じ立場を占めていると」

「僕はそう考えている」

「夏休みも、じゃあ調査会が」

「さあね」沈黙が流れて、それからふいに、強烈な陽光が窓から差し込んだ。

「僕は、この国の歴史までもが間延びしないことを願うよ」この仕事を選んだ理由の一つでもある、と小野里先

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ランドマーク(128)

ランドマーク(128)

 舘林から連絡があったのは、盆明けすぐのことだった。わたしは先祖の墓も先祖の顔も見たことはないので、弔うべき対象を持たなかった。それが父になる可能性はあったにしろ、父親が既にこの世界に存在していないとはどうしても思えなかった。別々の学校へ進学した友人のような風体で、どこかのスーパーマーケットで再会できるような、くだらない物語を育てている自分もいた。

 目覚まし代わりのコール音は、わたしを夢から現

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ランドマーク(129)

ランドマーク(129)

 何かをする必要がある。わたしはベッドから転がり出て、レインジャケットをTシャツの上に羽織って、それからマイボトルに水を詰めて、それくらい。自転車で行こう、と思った。電車だと遅すぎる。それに、なんだか居心地が良すぎる気がした。

「おーい!!」コールがまだ切れていなかったことに気付いたのは、ペダルに右脚をかけてからだった。

「海良、一人で行くのか」

「そうだけど」

「行くよ」

「なんで」

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