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権利と法

はじめに

「○○の権利を求めて、私は戦い続けます」というスローガンを掲げて活動されている方や団体をよく目にすると思います。歴史を振り返ってみると、このような運動を通して、与えられた権利もあり、まさに命がけだった時代もあります。目に見えない権利というものが与えられるとはどのようなことなのでしょうか?権利は誰かが与えると決めることができるのでしょうか?そもそも、権利とはいったい何者なのでしょうか?今回はその権利について説明していきたいと思います。

権利とは

有斐閣の法律用語辞典(第4版)を引用すると、

権利とは「一定の利益を請求し、主張し、享受することができる法律上正当に認められた力をいう。相手方に対して作為又は不作為を求めることができる権能であり、相手方はこれに対応する義務を負う。権利は法によって認められ、法によって制限される。私法関係で認められる権利としては、物権、債権、親権などがあり、公法関係で認められる権利としては、刑罰権等の国家的公権と、選挙権等の参政権、訴権等の受益権、自由権などの個人的公権とがある」と定義されています。

わかりやすく言えば、何かを主張したり、受けたりすることができるものです。権利は法によって規定されるものであり、法に基づかない権利は存在しないということです。つまり、権利を求めるということは、法による権利の所在を明確にさせることと言えます。

権利=法?

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日本語では権利と法は別の言葉ですが、ドイツ語(Recht)やフランス語(droite)では権利と法は同じ単語を使います。ドイツ語の場合、法律を表すGesetzという単語もありますが、setzenという動詞には「記す」という意味も含まれており、Gesetzは文章化されたものを表すので、この文脈だと成文法を指します。GesetzはRechtに含まれます。しかし、これが英語になると権利はrightで法はlawで別の単語を使います。日本語の権利と法は英語の訳語であるため、この2つの単語が区別されています。日本の法律は刑法がドイツ、民法がフランスの影響を受けていますが、言葉は英語の影響を受けています。ドイツやフランス(大陸系)では、権利と法は同一概念です。つまり、権利と法の一体性が単語に表れていると言えます。『権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)』の日本語版にはRechtの箇所が「権利=法」と訳されています。このことからも権利と法が表裏一体のもので、切っても切り離せないことを示しています。

権利の主張はどこまで認められるべきなのか?

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権利は何かを主張したり、受けたりすることができるものです。権利を全員主張すれば、どこかで他者の権利がぶつかることがあります。自分一人しかいない世界であれば、自分の権利を主張し続けることは可能ですが、他者と共存していく以上、権利が制限されることはあります。しかし、その制限が不当である場合は、その制限は認められません。お互いが権利を主張し、どちらも自らの正当性を主張しているとします。どちらが正しいのか当事者同士で話し合っても、らちが明かないので、司法(裁判所)にどちらが正しいか決めてもらうことになります。司法は法の線引きをできる唯一の機関なので、権利の制限を認める判断をすることも許されています。他の立法や行政機関にそのようなことはできず、法の範囲内でしか行動することができません。
他者の権利も法で守られているため、その権利を侵害するような権利行使は禁止されていて、権利を侵害された人はその侵害行為に対抗することができます。他者の権利を侵害すれば、違反行為となり、制裁が科されます。「俺には自由にする権利があるんだ」と言って暴れまわるような人がいますが、他者の権利が侵害されている時点で守られていない状態になります。ネットでの誹謗中傷を正当化する人は、「自分には表現の自由がある」と言いますが、他者の権利を侵害するような権利行使は認められていません。何かを言ったり、書いたりするときにはこのことに気を付けなければなりません。一度、中高年の人に中傷の意図のある書き込みがあり、不愉快な気分になった記憶があります。
違反した人(主に犯罪者)は一般人以上に権利が制限されますが、これは人権侵害ではなく、違反に対する制裁です。ただし、刑事法に違反した者への制裁は必ず法律に記載されていなければならず、その範囲を逸脱してはならないとされています。このことを罪刑法定主義と言います。近代民主国家であれば、国民の人権を保障しています。刑事法は、一歩間違える人権侵害になってしまいます。法律でどのような条件の場合に、どの範囲までの権利を制限していいかを定めなければなりません。刑罰で言えば、罰金刑では財産権を制限され、懲役刑・禁固刑では自由権を制限され、死刑では生存権が制限されます。さらに逮捕でも現行犯逮捕以外は、逮捕状がなければ逮捕することができず、逮捕状がない状態で逮捕すると犯罪になります。犯罪に関する法律は非常に細かく規定されています。適用範囲の境界をしっかり定めなければ、法の適用を受ける人に不利益が生じるからです。刑事法は民事法に比べて、法の適用が非常に厳格です。それは国家が犯罪者の人権も保障しなければならず、法に基づない制裁をしないようにするためです。


与えられる権利、伴う責任

権利は等しく与えられ、またその権利の行使についても平等です。権利を行使しないという選択もできます。あなたは、知り合いにある物を見せられ、それがいるかいらないかを聞かれたとします。あなたはそれが不要なものなのだと思い、「いらない」と言ったとしましょう。そして、別の人がそれをほしいと思い、別の人に渡しました。しかし、あなたはそれが急にほしくなり、あなたにその物がいるかどうかを聞いた知り合いに「その物を渡した人からそれを取り上げて、俺に渡せ」と言うことができるでしょうか?その過程に問題がなければ、そんなことできるはずがありません。そんなことができれば、ジャイアン以上のことができてしまいます。権利の行使は個人の自由ですから、どのようにするかは自由です。しかし、その行動に同時にその行動に対する責任を負うことになります。権利を行使すれば、権利を行使するときに発生する義務を果たさなければなりませんし、権利を行使しないのであれば、そのことに関して干渉することはできません。権利を行使するときはどのようなことが起こるかある程度予測し、どこまでの範囲での責任を負えるかはっきりしておかなければなりません。その認識がずれているとトラブルに繋がり、最悪の場合、訴訟にまで発展することもあり得ます。権利の行使は自由ですが、それに伴う責任から逃れる自由はありません。権利がある以上、責任も伴います。民法上、未成年の権利行使は制限されています。民法では未成年が権利行使に対するその責任を負う能力がないとしているからです。親権者の同意、追認がなければ、未成年者だけで契約ができないのはそのためです。


最後に

権利は等しく与えられていますが、その権利を使うかどうかはその人次第です。知ることができるのに知ろうとしなくて、そんな機会などなかったと言うことはできません。「権利や法は偉い人のためだけにあるもの」だと言う人がいますが、これは権利や法について理解していない人が言っている言葉のように思えて仕方がありません。権利や法について知る機会・権利が与えられているのに、そのチャンスに気づかず逃しただけではないかと思います。もっと簡単に言えば、締め切りを過ぎて、書類を提出し、「締め切り前に提出した他の奴の書類と同じように扱え」と言っているようなものです。機会や権利があるのに、それを自分が知らなかったことや使わなかったことに対して、誰かが責められなければならないのでしょうか?権利は与えられるものですが、学校のようにすべてを教えてくれるようなことはありません。自らで知り、気づかなければならないものです。

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