アドラーのいうトラウマは存在しないのか|まだまだ考えるHSP

岸見さんの「嫌われる勇気」を読んで、トラウマの存在を完全に否定したこの著書について、自分なりのトラウマについてはどうかと前に書いたけど…

最近生理的嫌悪感レベルで他人の意思を受け入れられない事例が多発している。
・ASD特有(症状、傾向でいうとASDだけではないけど)執着による共感不調和(とでも読んでみよう。とは言え第三者にはその不道徳さは分かりずらいからますます厄介)
・(ま、一応、婚活しているんだけど、私は思いを押し付けられるのが本当に、本当ーに生理的に嫌いなようで(過去3回のストーカーより))交際を申し込まれて受けたら、朝吐き気が止まらなかった(難儀すぎる体質)。

これらは思い込みではなく、トラウマではないのか?体質として、頭痛や吐き気を催している。赤面症などとはジャンルが違うがどうなのだろうか。

うーん、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に近くない?

あ、これはもう病気か!!

あ、そっか、私病気だったのか。

なるほど!トラウマはそもそも病気で、一般的に私たちは病気と言われるレベルにまで行かないトラちゃんウマちゃんですら、これだけの絶大な行動制限をさせられる非病気に対しての警鐘を言っていたということだ。

なるほどなるほど、ちなみにトラウマなる病気に対しては、認知行動療法が有効とのことで、私の場合、自分で自己理解noteを介して認知行動療法で対処を重ねた結果、病気ではないトラちゃんウマちゃんに対して絶大な効果を生んでいたというのが、現状らしい。。。

なるほど!結局、病気か病気じゃないかというジャッジは専門医しかできないのだが、それが本当に正しいかという点においては、発達障害認定をみていても、本当に結構危うい。実害が生活に出ていないと認定されにくいに発達障害においては自覚症状なし他覚症状ハンパない人は逆に自ら病院に行くことないから認定されないし、手術においてもセカンド、サードオピニオンは今や当たり前、信用できる人(医者)に会えるかどうかの確率論的になっているし。

なんか、結局他力本願ではなく、たとえ間違っていても自分の信じる道をつど軌道修正しながら、進んでいくという形になるしかないのではないかとなった。

そんな時の選択肢に自分の「願い」というものを強く意識できる日々の心のあり方とか言っちゃうと、修行とか精神論とかみたいに聞こえるけど、私的にはちょっと違って、その時大事なのは自分がいまどこに置かれているかという客観的環境比較マップなのかもしれないな。

そうしないと次の具体的行動が出てこない。世界のどこかにあるかもしれないけど、自分が出会えていないものは「無い」に等しい。

1)選択肢のパイがないことがどこまでも「貧しい」
2)自分の選択ができる勇気に対しても幅が必要

それには自分自身で蓄積する経験が絶対となる。

そんな感じかな。

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