不登校がなくなった記事を発見。私たちがもっと人間であることから考えることにしたシリーズ。

ASD,ADHD,HSPが成人した後に問題を抱えるとなかなかきついなと思った。

というか、HSPが病気として診断されない理由は、表向き謎だ。その点においてわざわざ答えを置くとすると、
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人類は、私たちの歴史から辿ると「生き残る」のもヒーヒーの世界だったわけで、とすると、「「生き残る」のもヒーヒー」に必要だったのは
・集団生活
・協調性
・狭いコミュニティーでの相互の境界線
と言う流れから、ASD,ADHDは脳の構造的に外れたものを持っているということのように見えてきた。
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が、だからって一緒に生きていけないわけではないし、むしろ、現代ではすくすく生きてる人もいると思う。

なにが違うか。

歴史の進化の流れから、「自分にはそれが合わないな」と感覚的に理解して、そこは近寄らず、自分のいいとこ伸ばしてる(無意識、前向きな諦め)とでも言いましょうか。そう見える。

つまり「自分のDNAからの特質に歯向かわず、優しく受け止め生きている」

っていえると思う。そう思うとスタートラインは、ASD,ADHD,HSPも一緒な気がしてくる。ただ違うのが、今の現代が、「みんなで生きていこうぜ!」って流れの上で成り立っているから、ちょっと自分は違う(というか相反する)マイノリティーの構造を脳に持っているのね。と自覚することからでは?と思うが、自分がまさか時代の流れとちょっと違う脳の構造持っているって、今日の教育、「みんな仲良く、おんなじ気持ちをもっている」とか謳ってる環境から生まれたて置かれたのはなかなかきついかもしれない。

が、みんな、実際もっているとしても、一緒に生活してく上で、習慣と言われるもので慣れたり、属性とは相性が悪くてもできてしまうものもあるから、これまた救済になっているというか複雑である。

で、ここ最近、「あの子たちはできないのよ、悪気がないのよ」と言われてこっちが受け止めるばかりかい!と言う点で対立した。

問題としては、理解を求める説明も姿勢もなく、ことが起きてから、事後報告で押し付けのように言い放つ点であった。

社会人になってこれは通用しないなと思うばかりである。

さて、本題に戻り、「不登校がなくなった」という素敵な記事を見つけた。そんなこんなで子供たちには本当に罪がないと言い切りたい(ASD,ADHD,HSP傾向があっても分け隔てなくこの時期だけは、お互いの違いを肌身で感じ、折を見てみんなで話してみる機会を与えられる)のが、学校生活だと思えるのだ。

と思って、学校生活になんらかの対応を願うことが書いてある記事かと思ったら、内容はこうだった。

・学校や勉強の話題をやめた
・指示や誘導もやめた
・こどもの話をしっかり聞くようにした
・無視をされても挨拶するようにした
・食べたいものの欲求はできる限り応えた
・夫婦喧嘩をやめた

なんだか、本当に感動だった。いち個人の人間の抑圧されているものを家族総出で取り払おうとしている点。とは別に、人って満たされないものを満たしてあげることで「心に余裕」ができるんだなと改めて思った。

自分が正しいと思ってその正しさをぶつけるのもなかなか意地悪に匹敵するくらいしんどいものあるよね。そうすると食欲も無くなったり、眠れなくなったりするし、とても人間的だと思えた。

おっと、よしよし「同じ人間」と言うところまで戻って来れたら、私のこころはなんだか優しく慣れた。


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