見出し画像

【小説・序章】子猫と”彼”

それを見てしまったのは、本当に偶然だった。

街外れの、古いマンションのベランダの下にある隙間に、小さな黒いカタマリが、しゃがれ声で『にゃぁあ〜、にゃぁああ〜』と、悲痛な声をあげていた。
その声を聞きつけた僕が、そっと近寄ろうかと思った瞬間。
目の前を、長い影がスッと通りすぎて行ったのだ。

「・・・オマエも、俺と同じか」

大きな手で、その小さなカタマリを掬いあげると、目の前に持ってきて、”彼”は、聞いたこともない優しい声で、そいつに小さく語りかけた。
手の中にすっぽりと収まってしまったカタマリ=薄汚れた小さな黒猫は、
「にゃ・・・」
と小さく鳴いて、手の中でおとなしくなった。”彼”は、その姿を見て、小さく声を立てて笑った。

僕はそんなやり取りを、ただぼーっと、ビルの影から眺めてしまっていた。
覗き見してしまっているという、気まずい思いさえ、消え去っていた。

”彼”・・・レンが、そんな風に笑うのを、僕は初めて見たから。
レンと僕が出会ったのは、半年くらい前のことだったが、それから今までの、ただの一度も、レンが声をあげて笑うところを見たことが無かった。
笑うことすら本当に稀で、それも片頬を僅かにあげて、自嘲気味に、または皮肉を持って、口元で笑みを形作るくらいのものだった。

あまりに驚いたせいで、足元の石ころを踏んでよろけた僕は、ビルの壁にとん、と体を倒しかけ、小さな音を立ててしまった。

「誰だ?」

途端、警戒心むき出しの低い声が飛んできた。僕は、秘密を垣間見てしまった罰の悪さを抱えながら、ノロノロと姿を表すしか無かった。

「なんだ、なずなか。なんでこんなトコロにお前が?」
「・・・その、偶然、僕もその子の声が聞こえた、から・・・それで・・・」

しどろもどろの僕の言い訳を、レンは聞いているのかいないのか、泰然とした態度で、こちらに近づいてきた。

「お前、今時間あるか?」
「え・・・?別に、うん、あるけど」
「じゃあ、コイツを風呂に入れてやって、猫用のミルク買ってあげてやってくれ。俺はこれからスタジオ入りだから、連れて行けそうにない」
「え?」

差し出された黒い子猫は、おそらく昨日の雨に降られてそのままだったのだろう、泥と自分の排泄物にまみれて、ひどい有様だった。
生後3週間くらいだろうか、レンの大きな右手の中にすっぽり入って余るほどに、小さな小さな命。
僕が反射的に手を出すと、押し付けるようにぎゅっと子猫を握らされ、

「頼んだぞ。練習が終わったら、お前の部屋に迎えに行く」

早口で一言、そう言うと、彼はさっさと街中へと消えていってしまった。
返事をする間も、追いかける暇も無かった。
有無を言わさず押し付けられた子猫と、道端で取り残されて、僕はしばらくの間、呆然と立ちすくんでいた。


「よーっし。これで綺麗になった!」

結局、あれから、僕はレンの言いつけ通りに家に子猫を連れ帰り(電車の中では、匂いが周りに届いているのか、ちょっと視線が痛い気がしたけど)、シャワーを浴びせ、シャンプーでかなり念入りに何度か洗って、さらにドライヤーでふわふわになるまで乾かしてやった。

「あれ・・・お前、黒猫じゃないんじゃん」

汚れを落としてみると、真っ黒な子猫に見えていたその姿は、実は淡めのキレイなサビ色をした子猫に変身していた。
子猫は、初めてのシャワーとドライヤーに、最中は、かなり怯えて怒って、にゃーにゃーと泣き喚いていたが、終わって、ひと心地ついたと見るや、自分がキレイになったと分かったのか、満足気にゴロゴロと喉を鳴らしながら毛繕いをし始めた。

「そうだ。お腹、空いてるよな」

帰り際に、ドラッグストアで買ってきた猫用のミルクを、ミルクパンに移して温め始める。容器を買うことまでは頭に無かったので、適当なお皿に温まったミルクを注ぎ、そっと子猫の前に差し出した。
猫は既に、ミルクを温めている最中からソワソワし始めていたが、目の前にお皿を置かれると、待ってましたとばかりにピチャピチャと勢いよく舐め始めた。

「がっつかなくても、いっぱいあるから大丈夫だよ」

ニコニコ顔で、僕はその様子をしゃがんで見ていた。
そして、先刻のレンの姿を思い返していた。

『オマエも、俺と同じか』

小さな声だったが、確かにそう言っていた。
どういう意味だろう・・・同じって、何が同じだって言うんだろう。
子猫とレンには、どこにも共通点がないように思えるのに、と、首を傾げながら、ミルクに夢中になっている子猫をボーッと見ていると、ピンポン、とやけに明るい音で、ドアチャイムが鳴った。

「あ・・・まさか」

そのまさかだった。ドアの向こうには、半分息を切らしたレンが立っていた。

「ず、ずいぶん早かったね。・・・まさか、走ってきたの・・・?」
「ああ」

元々、寡黙な男だ。身長190cmに背中の半ばまで伸びた灰色の髪、生粋の日本人ではないと、すぐに分かる体格と風貌に加え、薄い色のサングラスをかけたレンの姿は、どう見たって、子猫を気遣って、駅から15分の僕の部屋まで走ってくるような人物には見えない。

僕は、体を半分横にずらして、子猫が見えるように部屋の中を見せた。

「ほら、今ミルク飲んでるよ。大丈夫、けっこう元気」
「サンキュ」
「どうぞ、上がって」

さらに体を引いて促すと、一瞬の躊躇の後、レンはゆっくりと部屋に入ってきた。
子猫のそばにそうっと近づく。子猫は、気づいているのかいないのか、ミルクから顔を上げようともせず、一心不乱に飲み続けていた。

「・・・よかったな」

また、あの優しい声で、レンが子猫に語りかけた。
僕はその後ろ姿をなんとなく見つめながら、先ほどのレンのセリフの謎が、また頭に蘇ってきて、ちょっと迷いながら、声をかけた。

「レン、あのさ、」
「ん?」
「猫のお世話したお礼っていうか、お返しっていうか・・・聞きたいことあるんだけど、聞いてもいい?」
「なんだ?」
「・・・怒らない?」
「だから、内容はなんだ」
「うーん・・・答えたくなければ、答えなくってもいいんだけど・・・。その子を拾ったとき、『俺と同じか』って話しかけてたからさ。どこが同じなのかなって、なんか、気になっちゃって・・・」

ちょっと、おどおどしながら聞いてみる。
強面の男だが、意味なく怒ったりしないこと、存外に優しく、隠し事などをしたりしない性格であることを、この半年の間に僕は知っていた。
だから、嫌でなければ教えてくれるかもしれない、と軽い気持ちで思ったのだ。

「ああ・・・聞いていたのか」
「うん、ごめん。盗み聞きするつもりは無かったんだけど」
「いや・・・別にいい。俺が生まれたばかりの頃、フォアフィールドの屋敷の門の前に捨てられていたからサ。コイツも母親か飼い主かに、捨てられたのかと思って『俺と同じだな』って言ったんだよ」
「え・・・」

気軽な調子で語られたその言葉の、内容の重みに、僕は言葉を失っていた。
フォアフィールドとは、レンの苗字だ。イギリスの有名な名家で、世界的に色々な事業展開をしている資産家だと聞いていた。

「レンは、フォアフィールドの生まれじゃ、ないの?」
「ああ、養子ってヤツだな」

こともなげにレンは言った。
そんな重大なことを、こんな簡単に聞いてしまってよかったのか。ドキドキと焦る僕とは反対に、冷静な様子のレンは、僕のその様子に突っ込んできた。

「聞かなきゃ良かったって顔してるな。別に気にしなくていい。隠してることでもないしな」
「そ、そうなの?」
「ああ」

それきり、しばし、部屋を子猫がミルクを飲む音だけが満たしていた。
僕は本気で、心の底から聞いたことを後悔した。
以前から、『レンは、強面の居丈高な男だけど、それは名家のお坊ちゃんだから、生まれつき高貴な血が、そうさせてるんだね』なんて軽口を叩いたこともたびたびあったからだ。その時は、なにも言わずに笑っていたのに・・・

「なんか、ご、ごめん」
「何が」
「僕、レンのことお坊ちゃんだと思ってて、失礼なこといっぱい言ってたような気がするから・・・その・・・」
「別に俺ぁ、十分お坊ちゃんだゼ?血は流れてないが、確かに金持ちの家で、いいもん食って、いいもん着て、何一つ不自由無しで暮らしてきたからな」

皮肉げな、いつもの笑みを浮かべて、レンは僕に振り向いて言った。
さっき子猫に向けていた優しい笑顔とは全然違う、誰もに浮かべる上部だけの笑顔だった。
僕はなんだか居たたまれなくなりながら、口の中で言葉にならない声を出しつつ、あの笑顔を簡単に貰える子猫が、ひどく羨ましくなっていた。

「あの・・・その子、飼うの?」
「誰か、貰ってくれるヤツが見つからなければな」

何か考えるように、部屋の中を見回しながら、レンは言う。そして、不意に、全然違う内容を振ってきた。

「それよりお前、いつでもこんな風に、男を部屋に上げてんのか?」
「え?」
「だってよ、お前も一応、女の子だろ。危ねぇだろうが。俺が、今、お前を襲ったりしたらどうするんだよ」
「レンは僕なんかを襲ったりしないでしょ?」
「そりゃあ、しないけどよ・・・俺は仮の話をしてるんだ。あんまり、気軽に男を部屋に上げるんじゃない」
「・・・う、うん。ご、ご、ごめん」
「分かればいい」

そう、こんな言葉使いをしているし、見た目もまったく女性っぽくはないが、一応僕の性別は”女”だ。
南なずな。18歳。大学1年。身長158cm、42kg、胸は全然ない。
髪も短いし、オシャレは嫌いじゃないけど、中性的な服ばっかり着てるから、普段も誰からも女扱いなんてされてなかったし、自分でもそれが心地よかったりする。

僕は、いわゆるジェンダーレスだ。

基本的に男は好きじゃない。僕の性的嗜好は、可愛らしい女の子。
自分にはない、憧れとかもあるのかもしれないけど・・・友達も男より女の子の方が圧倒的に多いし、自分から男に媚びたりするのは、一番嫌いだった。
レンは、本当に数少ない、僕の男友達の1人と言っていい。彼を『友達』、というカテゴリーに当て嵌めて良いのかは、分からないけれど。

しばらくして、お皿のミルクを全部平らげた子猫は、うつらうつらと眠そうな仕草をし始めた。レンは、それを認めると、壊れ物を扱うような、そっとした仕草で、眠りかけの子猫を無骨な指で抱え上げて、慎重にゆっくりと立ち上がった。

「帰るの?」

声を小さくしながら聞くと、レンも小さく頷きながら、声を低め答えた。

「ああ・・・世話になったな。この礼は、また今度な」
「お礼なんて良いよ。レンが拾わなかったら、多分僕が拾ってたから」
「礼は礼。気にせず期待しとけ」

ピッと、僕に視線をまっすぐ当てて言うと、レンはそのまま帰ろうと、玄関に向かって足を踏み出そうとした。
僕は、不意にそれを押し止めたくなり、大きな背に声をかけた。

「なら、お礼、今して」
「なに?」
「サングラス、取ってよ。レンの瞳、見たい」
「・・・・・」

僕を見つめる薄い色のサングラス越しの瞳が、僅かに眇められたのが分かる。
怒るかな?僕は、ちょっと自分の発言を後悔しつつ、それでも願いを込めてレンを見つめた。
しばらくの沈黙の後、ゆっくりと空いている左手が、サングラスに伸びた。

「・・・どうだ、満足か?」

サングラスを外したレンの瞳は、抜けるようなスカイブルー。
初めてその瞳を偶然見てしまってから、僕はこの色の虜になった。透き通った宝石のような、美しい空色の瞳。僕の部屋の安っぽい蛍光灯の光を反射してなお、どんな宝石よりも綺麗に輝いているように見える。
そして・・・その奥に潜む、圧倒されるほどの強い意志のパワー。それは、レンの生命力そのもののようだと思う。いつもいつも、見るたびに、僕の心を震わせずにはおかない。

「お前、俺の目、好きだよなぁ。お手軽な礼だな。こんなモンで、いいのか?」
「うん!ありがと!!」

僕は、にっこりと笑って、レンにお礼を言った。
その声を合図に、レンはまたサングラスをかけた。日本では、確かにその色の瞳は異質だし、隠したい気持ちも分かるけど、もったいないなぁ、っていつも思う。

「それじゃ、またな」
「うん。次のライブも行くね!」
「サンキュ」

短いやり取りの後、レンは帰っていった。

僕は、そっと今日の一連の出来事を思い返していた。
初めて見た、レンの心からの笑顔と、初めて聞いた笑い声。小さな子猫をそうっと抱えていた大きな手。息を切らしながら、家まで走ってきたこと。部屋に入る時の、一瞬の躊躇。レンの過去を知ってしまったこと。僕なんかを、女の子扱いして怒ってくれたこと・・・そして、レンの空色の瞳。

「好きだなぁ・・・」

しみじみ、と言う色の声が出てしまった。恋というよりは、憧れ、ファンのような気持ちだと、思う。レンと出逢ってから半年の間に、逢うたびにそれは大きくなるような気がする。
独り占めしたいとか、ドキドキするとか、そういうのとは、ちょっと違う。いや、ドキドキはするけど、女の子にするようなのとも違ってて、ただ遠くから、永遠に見ていたい、そんな気持ち。

「次は、いつ逢えるかなぁ・・・ライブの後かな?」

1人きりの部屋で、ベッドを背にぽうッと座りながら、宙に向かい、呟いた。
今日みたいに、偶然、街中で遭うなんて、なかなかあり得ないラッキーすぎる出来事のはずなのだが、レンと僕は、ちょっと高い頻度で、そんな偶然に遭遇している気がする。

最初に出会った時も、偶然だった。

僕は、何度も何度も思い返した、レンと初めて会った時のことを、また繰り返し、思い出していた。

本編のどこかに続きます!

まいまいこ

この記事が参加している募集

もしサポートを頂けましたら、全額猫さまをお助けすることに使わせて頂きます。 また、皆様に読んで頂きたい本の購入資金などに充てさせて頂きたいと思っています。