ケアの倫理では、相互依存の人間の関係性を前提としている。 では、共依存と相互依存はどのように違うのか。 そのように聞かれると、答えられない。 共依存=あなたがいないと生きられないこと 相互依存=あなたがいることでよりよく生きられること でも、衣食住の基本的なケアはないと生きられないはずだ。 だから、違う気がする。 じゃあ、 共依存=関係性の網がその依存関係だけに依存している。 相互依存=関係性の網目の広がりの中で、それぞれに固有の価値がある。ただ、それがなくても、代替
ぐるぐるぐるぐる嫌な感情だけが心の中を蝕む。 私にはできないことがたくさんある。 それなのに、怠惰に生きて、何も学ばず、何も得ない時間を過ごしてしまっている。 そんな自己嫌悪に陥りそうだ。 自分との約束を何一つ果たすことができていない。 いつになったら私は物事を継続することができるようになるのか。 やると決めてやりきることを今の私は一切できていない。 嫌でたまらない。 やるのみであるとずっと前から分かっているはずなのに。 これ以上怠惰に生きてはならない。 ここで
大学である文献を読み、当事者について考えた。 読んだ文献 当事者とは何か、そんなことを考えるために、以下のような例が並んでいた。 ・東日本大震災の経験について、実際には被害を受けていない著者がフィクションとして描いたら、内容はリアリティがあって、多くの共感を呼んだ。しかし、実際のルポルタージュを参考として出さずに書いたことで問題となった。 ・ある詩では、原爆被災者として偽って書いた詩を、詩人がなくなった後に、別の詩人が偽名で被災者として発表して議論を巻き起こした。 ・自分
ある映画の自主上映会を見に行った。 私はその映画が見てみたくて言ったが、他の多くの参加者は別のコミュニティで紹介されてやってきた40~60代位の方ばかりだった。 どうやら映画を見ることではなくて、コミュニティに集う人たちと会いに、コミュニティに参加している自分に会いに、やってきていたようだ。 そこで何が起きていたのかを記述して、その良さと危うさを考えてみたいと思う。 起きていたこと自主上映会は、映画の鑑賞とトークライブ(監督×起業家)の2本立てであった。 参加者の方との
久しぶりに会った人とお話しをした。 「最近何してるの?」 「これからどうしていくの?」 「どんなことを考えているの?」 基本的に大抵のことはかみ合っていた。 どこかズレることがあっても、結局そこの判断が難しいよねーっとなっていた。 でもお互い色々あってからの今。 お互いの進む道が、 いやわかるけど、、 私は明確な理由があって、そちらの道ではないようにした。 それは間違っていると思う。 的な感じ。 最近はすべてを引き受けて生きる、自分の強さも弱さも痛みも苦しみも権力も何
茨城のりこの『言の葉さやげ』を読んでいる。 とてもとても面白い。 また、読書記録を書こうと思っているけど、まだ読み切れていないので、またあとで。 とはいえ、ついつい書きたくなってしまったことがあるので、書いてみたいと思う。 茨城のりこは言葉を起点にして、人の在り方、生き方について考えている詩人だと思った。 方言の今、ジェンダーと言葉、詩の朗読、いろんな言葉の使い方から、人の在り方について分析をしている。 『自分の感受性くらい』が大好きだから、茨城のりこの本を読み始め
共通言語があった方がいいなと思いながらも、いかにつくって広めるのかって難しいですよね。 でも、耳障りのいい言葉だけを使い続けて、物事を進めても、なんかこんな感じ?ってところから一歩も進むことができない。 だとしたら、一歩進むためにはやはり共通言語が必要なはず。 そんなことを思っているときに、共通言語をうまくつくり、社内外に広めているある組織を知った。 そこから学んだことを3点、ここに残しておきたいと思う。 まず、共通言語をつくるとき、やっぱり対話から始まるだろう。 だ
読書記録、8冊目。 今回は前回に続いてキャロル・ギリガンによる『もうひとつの声で』について書こうと思う。 概要本書は心理学者のキャロル・ギリガンが、コールバーグやエリクソンによる発達理論は男性のみを対象として作成されていて、それを女性に照らし合わせると、女性の発達が遅れていると不当に評価されてしまうということに疑問を呈した。そこで女性の声を聴く研究を進めた。 ハインツのジレンマ問題、女性の人工妊娠中絶における語り等のインタビュー調査を実施する。 そこで、女性の声の響きは男
この本はキャロル・ギリガン著『もうひとつの声で』が発表されてから、 正義対ケアという二項対立の議論など、ギリガンが意図しないような解釈、議論が巻き起こったことに対して、ギリガン自身のアンサー本である。 ここでは、本の概要と疑問、そして感想を書きたいと思う。 本書の概要本書は、ケアの倫理は家父長制のくびきから民主主義を解放するための闘争に不可欠であると展開する。私たちは家父長制によって何らかの抑圧を受け、自己の一部から切り離されてしまっている。それはジェンダー二元論とジェン
子どもがお母さんに必死に伝えようとしているが、あまりに不器用な伝え方故にお母さんが突っぱねてしまう、という現場を見た。 子どもは自分に構ってほしいだけだけど、「こうするな」「こっちに来るな」と言って、ベタベタと甘えている。 お母さんは当然嫌気が指す。嫌なら触ってこないでくれ、私はこっちで仕事をさせてくれ、と反射的に拒否をする。 お互いあなたのことが大切だから、自分のことを大切にしてほしい、と言っているだけだろうに、どうしてこうなってしまうんだろう。 あなたが大事だからこ
今の社会では家族がひとつの単位となり、 家族の内側と外側には明確な境界線が引かれてしまった。 家庭のあれこれに外の人間が首を出すことはまずない。 子育てや育児に悩んでも、お隣さんが助けてくれることはない。 どうしてもどうしても困って、役所に相談に行って、はじめてだれかの目が家庭に入ってくる。 そんなものだろう。 でも、それでいいのだろうか。 基本的に人間関係は複雑な網目をなしているから、 互いの緊張関係や相互作用によって、辛うじて成立しているのだと私は思っている。 この世
noteを投稿できずにいた。 最近は、自己嫌悪に陥りそうだけど、それでも前を向いて生きることを実践している日々、のように思う。 最近のことを振り返って、ちょっぴり怠惰になってしまったこの生活を見直したいと思う。 やりたいことはたくさんある。 今の私にはやりたいことはたくさんある。 ・インターンを頑張りたい。もっと知識をつけて、PDCAを回せるようにしたい。 ・卒論ももっと深めたい。 ・たくさん本を読みたい。 ・自炊もしたい。生活を豊かにしたい。 ・いろんな場所に行きたい
「計画的偶発性理論」って聞いたことありますか? 私もどこかではじめて聞いてみて、それから大学の授業でも学んで、 私が考えていたキャリア観がこんな風に理論になっているのか!と思ったりなどした(傲慢))) ということで、計画的偶発性理論とは何かを見た上で、わたしのキャリア観と計画的偶発性理論の距離を整理してみたいと思う。 計画的偶発性理論とは何かまずは、計画的偶発性理論が何なのか、簡単に確認してみたいと思う。 こちらの記事を参照します。 計画的偶発性理論とはクランボルツとい
褒めることは暴力だと思う。 自分の中にある軸で相手をジャッジすること、それを勝手に押しつけること。 その軸は大抵”社会”の軸を勝手に自分が内面化していて、自分が有利な立場にあるときに、軸を相手に押しつけることで、自分が社会の中で相手よりも強い立場にあることを示しつつ、かつ、自分が正しいと考えている社会を広げたい、と行う行為が褒めることだと思っている。 だから、私は褒めることは基本的に何らかの役割を与えられているとき以外、「わたし」として人と関わっているときはしたくないと思
読書記録6冊目はこちら。 ー「言葉にできる」は武器になる 私がnoteを書き始めたのは、内向きな言葉を外向きの言葉に変えたいと思ったことがきっかけだ。 そんな私にとってはまさにドンピシャな本だった。 ”内なる言葉”を知れコピーライターの著者は内なる言葉に目を向けて、思いを磨けと繰り返した。 世にはたくさんの言葉にする方法や伝え方のノウハウ本が溢れているが、そこで見落とされているのは、内なる言葉に目を向けることだという。 私たちは常に言葉に支配されている。言葉を使って、認
読書記録5冊目。 今回は『ケアの倫理ーフェミニズムの政治思想』を取り上げます! 『ケアの倫理ーフェミニズムの政治思想』とは「ケアの倫理」、みなさんご存じですか。 キャロル・ギリガンの『もうひとつの声でー心理学の理論とケアの倫理』にて提唱された道徳判断、思考様式のことです。 (私もケアの倫理に触れたのはこの本が初めてでした。) 日本では、『もうひとつの声でー心理学の理論とケアの倫理』の邦訳本が昨年度出版され、最近では『ケアリング・デモクラシー』(ケアの倫理の主要な論者である