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キャロル・ギリガン『抵抗への参加ーフェミニストのケアの倫理ー』|読書記録 07

この本はキャロル・ギリガン著『もうひとつの声で』が発表されてから、
正義対ケアという二項対立の議論など、ギリガンが意図しないような解釈、議論が巻き起こったことに対して、ギリガン自身のアンサー本である。

ここでは、本の概要と疑問、そして感想を書きたいと思う。

本書の概要

本書は、ケアの倫理は家父長制のくびきから民主主義を解放するための闘争に不可欠であると展開する。私たちは家父長制によって何らかの抑圧を受け、自己の一部から切り離されてしまっている。それはジェンダー二元論とジェンダー階層構造によるものだ。そこに抵抗するためにはまずは女の声を聴くことから始まる。女は家父長制によって抑圧されている立場であるだけではない。心理学者で、女性の発達段階の研究をしてきたギリガンは、家父長制が要請する通過儀礼が、少年は幼児期に訪れるが、少女は思春期に訪れる。少女はその際に通過儀礼への抵抗を示す。そこには少女たちの抵抗の声が聴かれるのである。
第二章、第三章では、抵抗の声が抑圧されるが、それでも抵抗の声は響いていることを示す。
第四章、第五章では、自分の中にある抵抗の声と抑圧しようとする声が、社会の中での立ち位置としては、インサイドとアウトサイドの視点を持って抵抗することにつながることを示す。女は聞こえない声を聴こうとする。自分の中にも社会の中にも。

疑問点

疑問① 女性の声を聴く意義について
通過儀礼の時期に男女差があることを繰り返していたギリガンだが、最終的には少年も思春期に抵抗が見られるということを指摘した。発達と通過儀礼に女性の声を聴く意義を見出していたギリガンははたしてどういう意味でこれを最後に書いたのだろうか。
結局なぜ女性の声なのか、が曖昧になったように思う。

疑問② 政治的と心理的な抵抗の違い
これは次元の違いを指しているということだと理解している。ただ、心理的な抵抗が政治的な抵抗にいかに移行するのか、については疑問が残る。声を持つことと関係性を維持することは女性にとっては矛盾せず、むしろ関係性を維持するために声を持つことが必要なのだとギリガンは述べていた。
(個人的には感覚的に納得できるのだが、、)

疑問③ ケアの倫理とは何か
結局ケアの「倫理」とは何なのか。個別具体的で文脈依存的で関係的なケアの倫理とは何なのか。
ケアの倫理の必要性を繰り返していたギリガンだが、結局ケアの倫理とはこういう定義でこういったことを評価するとは述べられなかった。
ケアの倫理はそれを定義しないことに価値がある(定義できると考えていることが間違っているということも含めての主張だったと思う)と考えていると思うが、ならばもっと踏み込んで問わねば実用はされないと思われる。

最後に「あーー」

これは完全に個人的な感想だが、、
あーーこんな議論がこの社会にはあったのか、、と感嘆してしまった。
私の中にあるいろんな葛藤や悩みが、こんなにもクリアになって学問上の議論として成立しているのかと感動してしまった。
そうだよね、そうだよね、と読んだ。
批判すべき点は様々にあるはずだとは思うが、私はどうしてもギリガンが言っていることを信じたくて支持したくてならない。
人間性を家父長制によって失われた私たち。もう一度ケアの倫理を人間性を取り戻したいと思われてならない。
今ここで関係性の網目の中で何らかの苦難に対して、思いを馳せて、ケアをする、人間的な当たり前のことをやりたいと私は強く思う。


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